11月に入った。前回の彼の姿を見た以上、あっさりと飲み会に誘うような気にはならない。だからと言って現在の状態はどうしても知りたい。会う理由を作り上げて彼の事務所を訪ねることにした。病状を知りたいのではなく、あくまでも「事務所近くに用事ができたのでついでに寄った」ことにするのである。酒は飲めなくても、仕事を引継ぐための作業はまだ残っているのだから、事務所へはまだ出勤しているはずだったからである。なんなら美味い酒を持参して飲めない彼の前で私が飲み、そんな厭味をひけらかすような意地悪スタイルの見舞いも、親しい仲なのだから許されるのではないか、そんな気持ちを抱いたこともあった。

 そうこうしている内に11月9日(土)になり、彼からメールが届いた。「今月になって急に体力が落ちました。・・・動くと息苦しくなり、夜に布団からトイレを往復しても呼吸困難になります。・・・日中も酸素ボンベを引っ張るみたいです。・・・外の会合は無理みたいです」とあった。実はこのメールを私は、既に10月24日に受信していた。つまり同じメールが2度届いたのである。彼が送信を忘れていたと思ったのか、それともメールを打つ気力もなくて二度送りと知った上での送信だったのか、それは分らない。ただともかくも彼の苦しさはストレートに伝わってくる。そして内容は二度目ながら、このメールが彼から届いた最後のメールになってしまった。私は未だにこのメールから何かを読み取ろうとし、読み取れないことにもどかしさを感じている。

 11月13日(水)午前、彼が事務所に出ているかどうかを確かめるために電話した。彼はすぐに出た。私が「市役所に用事があってこれから大通りまで出かける。事務所に出ているなら寄りたい」と話した。だが受話器から聞こえる彼の声は絶え絶えの様子だった。「昨日、急に息が苦しくなり医者から入院を指示された。今は入院している」との返事である。事務所の固定電話へかけたはずなのだが、携帯へ転送されたらしい。入院先を尋ねるくらいの余裕しかないほどの苦しい息遣いであった。

 ネットで検索すると入院先の面会時間は12:00〜20:00に決められていた。取るものも取り合えず病院へ向かうことにした。事務所からは地下鉄乗り継ぎで30〜40分かかるだろうが、病院は下車駅からはそれほど遠くない。なんだか重たい石を飲み込んだような、落ちつかない気持ちになる。地下鉄の電車の到着が遅い、乗り継ぎの電車がなかなか来ない、降りた地下鉄の地上までの階段がやけに遠いなど、普段なら感じないようなことが今日は特に気になってくる。

 ナースステーションで彼の病室を聞いて面会の許可をもらう。個室の部屋番号を教えてくれた。たったそれだけのことに面会謝絶でなかったと少しホッとしている自分を感じ、そんなことを感じている自分にどこか違和感があった。開け放ったドアに背中を向け、彼は書類を読んでいた。丸めた背中に疲れた様子は見えるものの、ベッドに寝てはいないこと、それほどやつれた姿でもないことにどこかホッとする。

 「考えることやテレビを見ることでも呼吸が苦しくなる」、「抗がん剤は飲んでないが他の薬を飲むだけでも一苦労だ」、「唇が荒れてきてリップクリームが離せない」、「酸素が24時間離せなくなった。痛みはないが、とにかく体力がなくなった。呼吸が苦しいのが今の症状だ」、「『とりあえずしばらく入院』というのではないらしい。そのうち退院できるかも知れないが、もしかしたらこのまま入院を続けることになるかも知れない」、「琴似にはもう一軒行きたい店があったんだが無理かな・・・」、切れ切れにそんな言葉が出てくる。

 話を聞くこともつらそうで、自分の思いを一方的に口にするのがやっとのようである。「間もなく仕事を引き継いでくれる税理士がここへ来る。これからその打ち合わせをする」との話があり、まだ事務所の引継ぎがきちんと終わっていないことを知る。「仕事なんかぶっとばして、自分の好きなことや治療に専念したらどうか」と言ってやりたかったが、「最後まで責任を持って顧問先の面倒を見てやりたい」との彼の気持ちは、これまでの長い付き合いの中から痛いほど伝わってくる。これが彼の人生に対する構えの一つだったのかも知れない。私のようにどんどん仕事を減らし、読書やエッセイ書きや音楽を聴くこと、録画したビデオを終日見ることなどに人生を重ねようとしているのとはまるで違う生き様を彼は選んだのだろう。「また来るから・・・」、そんな冷たい声を残して私は病室を出た。他にかける言葉が見つからなかった。私自身冷たいなと感じつつ、そんな思いのまま病室を去った。

 11月13日午後2時過ぎの病室だった。これが彼との最後の別れになるなどとは少しも思わなかった。交通事故や災害ならともかく、人の死はどこか緩慢にやってくる、少しずつ死へ近づく気配を見せながら人は去っていく、その人を知る人がその人に死が近づいていることを予感できるような状況のもとで人は死んでいく、そんな思いが私の中にあったからである。

 11月28日、前稿の(3)「ガンとの闘い」で書いた苫小牧の友人からメールがあり、彼の状況を聞いてきた。入院した話をした。長くなるかも知れないとも話した。そして12月4日に二人で見舞いに行くことを決めた。札幌駅から病院のある地下鉄駅までのルート、会う時間、待ち合わせの場所などを打ち合わせた。「見舞いに行ったら退院してちゃったりして・・・」なんて冗談を言い合いながら、三人での会話を楽しみにしていた。

 11月30日(土)の朝のことである。我が事務所は妻はもとより誰にも公開ではあるが、意識的には秘密の基地であり一人で過ごす憩いの場でもあるので、土曜日もいつも通りに出勤していた。突然電話が鳴った。先週発表した(1)「彼との長い付き合い」で触れた、一緒に税界へ就職した30人の仲間の一人からであった。その声が静かに彼の訃報を伝えてきた。30人で仲間同士の連絡網を作っていて、本人や家族の訃報も含め飲み会など様々な連絡に利用しているのだが、そのルートによる連絡であった。絶句するしかなかった。何の話をしているのかよく分らなかった。信じられなかった。彼とは別れてからまだ半月しか経っていなかったからである。病気で人がそんなに簡単に死ぬはずはない、そう思い込んでいたからである。

 電話に続いて30人の事務局担当から訃報のファックスが入った。通夜や告別式の日時や会場などの書かれた紙が、当たり前のように電話機から吐き出されてきた。そして私はその内容を連絡網にしたがってそのまま次の仲間へと知らせた。当たり前のことをそのまま当たり前のように知らせた。私が別人になったかのようであった。死んだ彼は税理士である。間もなく北海道税理士会のホームページにも彼の訃報が発表された。何人かの知人から彼の死を知らせるメールや電話が入ってきた。昨夜の午後8時過ぎの死であると知った。その時刻に私は一体何をしていたのだろうかと考えた。漠然とテレビでも見ていたのかも知れない、軽い気持ちで本を開いていたのかも知れない。そして思い出す努力を止めた。分ったところでそこから答えが出てくるものではないと知ったからである。

 次の日は12月1日(日)である。新聞の朝刊には毎日、北海道在住者の訃報を知らせる「おくやみ」記事が載っている。当たり前のように彼の名もそこにあった。まるでダメ押しでもするように、彼の死を告げる知らせがあちこちから届いてくる。そして今夜が通夜であり明日が告別式であることも・・・。そして私は滅多に出番のない喪服を、ハンガーにかけたまま事務所へと運んだ。黒いネクタイや数珠や香典袋も用意した。なんだかとても妙な気がした。私が二人いるような気がした。彼の死を信じなかったわけではない。でもまだその死をきちんと受け入れられないでいる自分を感じていた。

                 「仲間が死んだ(5)〜そうか、もうお前はいないんだ」へ続きます


                                     2013.12.20    佐々木利夫


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