私の書いているエッセイがちょうど1000本目付近にぶつかって、何かポイントとなるテーマがないかと探していた。そんな時に旧約聖書のヨブ記にぶつかったので、早速挑戦してみた。先週と先々週にかけて四篇に分けて発表したばかりだが、書き終えてみてどこか未練と言うかしっくりこないものを感じていた。神の身勝手な傲慢にへそを曲げ、同時にそんな神の恥部をも包含して生き続けてきた聖書の奥深さに少し興味を持ったと言うのが読後感ではあった。
 ただそうした私のヨブ記の理解には、どこか煮え切らないものを感じていた。私の中で何かしらすっきりと消化しきれないものを感じてしまったのである。

 それはそうかも知れない。聖書どころかヨブ記にしたところで、私の理解は余りにも遠い。理解できない単語、理解できない習慣、理解できない論理、意味不明のフレーズなどが山積していたからである。あらすじはとりあえず読み取れたと思ってはいるものの、それとてもどこまで理解が伴っているのかは極めて心許ない。場合によっては活字の上っ面を撫で回していただけの錯覚かも知れないからである。

 二千数百年を経て生残ってきた伝承である。内容を理解するには、当時からの歴史や地理、更にはその土地に根ざしている人びとの体臭までをも知ることなしには不可能な気さえする。もしかしたら私の書いた四編にしたところで、「大いなる誤解」、「まったくの曲解」である可能性もないではない。
 もちろん誤解にしろ曲解にしろ、「私はそう思い感じたのだ」という意味においては、少なくとも私の中では了解事項であるかも知れない。ただそれが私の中で消化不良のままになっているのではないか、との疑問が残っているのである。

 そんなとき、発表する原稿を推敲で読み直しているうちに気づいたことがある。ヨブの嘆きはつまるところ一言に集約されるのではないかと思い始めたのである。それは「ヨブ記3・ヨブの訴え」でも触れたところだが、彼の思いは「どうして私だけが・・・」の一言に尽きるのではないかと言う思いであった。ヨブの嘆きはつまるところ、「私はこんなにも熱心に信仰してきたのに、そして一つも悪いことなどしていないのに、どうして私だけがこんなひどい目に遭わなければならないのか」という訴えに集約できるのではないかと気づいたのである。

 そしてこうした疑問は、決してヨブだけのものではなかったことにも同時に気づいたのである。「どうして私だけが・・・」、このフレーズはヨブの時代から二千数百年を経た現代まで、色あせることなく繰り返されている言葉だったからである。検証した訳ではないけれど、恐らく世界中の人たちの中で、この言葉を一度たりとも口にしなかった人など、一人としていなかったのではないだろうか。

 人はあらゆる歴史、あらゆる時代、そしてあらゆる人生を通じて、常に我が身に「理不尽と思われる仕打ち」を繰り返し受けながら(または、そう思いながら)過ごしてきたのではないだろうか。
 「正直者の頭に神宿る」、「信じる者は救われる」、「お天道様が見ている」、「因果は回る」、「楽あれば苦あり」、「禍福はあざなえる縄のごとし」、「楽は苦の種、苦は楽の種」、「勧善懲悪」、などなど・・・、私たちは悪には報いがあり、正しい行いをしていれば必ず幸せが訪れるのだと信じ、聞かされ、他者へと伝えてきた。

 そしてそうしたことを基礎において、家内安全、商売繁盛、災厄や交通事故除けのお札、合格祈願、結婚や子宝や毎日の安定した食事などを、祈り続けてきた。宗教を信じない者でも、時に「神様、仏様」へ祈り、感謝さえしてきた。

 でも人はすぐにそんなことが誤りであることを知る。世の中に悪がはびこる現実や暴力が結局通ってしまう現実を、否応なく知ることになる。「何にも悪いことはしなかったのに」、「隣の人と同じような生活していたのに」、「こんな些細なことくらいしか悪いことなどしなかったのに」、「当たり前の生活をしていたのに」・・・。にもかかわらず我が身に降りかかってくる不幸の理不尽さは、過ごしてきた日常と比べることすらできないほどにも非情であり過酷である。

 酒酔い運転の車にぶつけられる、家に強盗が入って殺される、誰でも良かったとうそぶく通行人に刺される、突然の地震や津波、隣の工場の爆発、戦争、暴動、旱魃、そして乗っている飛行機や列車や船の突然の事故、・・・などなど・・・。そのたびに私たちはくり返し問う。「どうして私だけが」、「どうして私の妻だけが」、「どうして私の子供だけが・・・」。その裏には、必ずと言っていいほど、「そんな報いを受けるような悪いことなんか、少しもしていなかったのに・・・」の思いが潜んでいる。それはそのまま、悪いことをしたときには悪い報いがあり、良いことをしたら良い結果が訪れるとの思いを、私たちが無意識に信じていることを示している。

 こうした思いは「ヨブ記」と同じである。ヨブ記はまさに、「何にも悪いことなんかしていなかったのに」財産も子供もすべてを失い、更には我が身が腫れ物に覆われるような不幸を受けた現実に対する、ヨブの神に対する抗議の記録だからである。

 その抗議に人々は共感したのではないだろうか。だから二千数百年もの長い歴史を、この物語は伝えられ語り継がれてきたのではないだろうか。多くの人にヨブの悲嘆が自分の痛みとして伝わってきたからではないか。人は自らの行なってきた正義が、身に降りかかってくる理不尽とはなんの関係もないと知ったのである。

 「正しい行い」と「幸せで恵まれた生活」の関係の切断である。それは反語ですらなかった。正しい行いが理不尽を招くのでも、悪しき行いが幸せを招くのでもない。行いと結果とはまるで無関係であることを、人は幾度となく思い知ったのである。人の世に理不尽さが絶えることはない。しかもその理不尽さは、その人が行なってきた善意や正義や慈悲や信仰などとはまるで関係がなかったのである。

 それはまさに無関係だったのである。昔から無関係だったのである。それは神が生まれる前からそうだったし、神が生まれてからも神の無関心が解消されることはなかったのである。どんなに信仰厚き人生を送っていても、どんなに全うな人生を送っていたとしても、戦争で我が家は予告なく破壊されるのである。妻や子や夫や両親は爆弾の中に死ぬのである。日夜神に祈る生活を送っていたとしても、津波は突然に襲ってくるのである。それは同時に「神を信じない人」にも訪れる悲劇だったのである。

 「神が死んだ」とニィチエは言ったけれど(別稿「懲りない男」参照)、その言葉をそのままに捉えることは必ずしも正しい理解ではないかも知れない。ただそれにもかかわらず神は不死ではなかった。ただ、神にも限界や寿命のあることを神自身が知ったのかも知れない。神は人に無制限の信仰を求めようとした。だが時に人は神に「黄昏」を感じたことは事実である。

 神を信じていない私にとって、「信じること」以外の側面から神をどう捉えたらいいのかは、大きな課題である。神の存在を「信仰している人の心の総和である」、と長く考えていたけれど、必ずしもその答えに納得しているわけではない。信仰がどんなに厚かろうともそれでもなお私は、人の世の理不尽さはこれからも絶えることなく続くだろうと思っている。それも決してヨブのように回復される保証もないまま、人びとの心の中に「どうして私だけが・・・」の疑問を繰り返し投げかけながら・・・。


                                     2013.8.11     佐々木利夫


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