302 生きること メモ 2005.12.21

 生きることってのは、もしかしたらとてつもなく単純なことなのかも知れない。食うこと以外に私はその答えを見出せない。理解だとか知識などで、どんな理屈をつけてたとしても・・・。

303 バベルの塔 メモ 時期不明

 バベルの塔は神へと届く高みを目指したものだけれど、もしかしたら人は二階建ての建物を考え付いたときにそうした歩みをし始めたのかも知れない。聖書は互いの言葉を通じなくすることで、神はその罪を人間に償わせようとした(別稿「バベルの塔の教訓」参照)。現代は100階を超える建物があちこちに建てられている。その設計はもはやコンピュータなしにはできないという。現代のバベルの塔である。そのことへの贖罪は、人間不信である。今度は言葉ではなく、翻訳そのものを拒否した「不信」がその報いである。「誰が責任を負うか」に向かって、世の中はまっしぐらに進んでいっている。「信頼関係の強化」という立派な言葉だって、本当のところは人間不信が根強く残されていて、「何かのときはよろしく頼む」みたいな互いの利益という隠れ蓑に覆われた己の利益を表している。隣人に対しても、国と国との関係でも、基本となる「人が人を信頼すること」をどこかで失ってきている。

304 ヨルダンのテロ メモ 時期不明

 イスラエル過激派による中東をめぐる情勢はイラクからヨルダンへと飛び火して、11月10日には外資系ホテル3ヵ所が爆破され56人が死んだ。これに抗議する市民の声である。「無実の人を殺しておいて何が聖戦(ジハード)だ」。よく分かる言葉である。無実の人、無辜の人、無抵抗な人、罪のない人・・・、主語は様々だが、どちらかといえば理不尽な犯罪などに比較的多用されるフレーズである。でも考えて欲しい。「無実の人の死」を抗議するのはいい。だがこの言葉は「無実でない人の死」を容認していることにならないのだろうか。そしてここに言う「無実の人」とは、普通は「無関係な一般人」という意味で使われている。つまり、例えば兵士、警官、役人、権力者、政治家などという、いわゆる「肩書きのある人間」への抗議を無意識に承認していることになっているのではないだろうか。こんなことにも命の差別が、人々の心の中に無意識に表れている。宮沢賢治の童話「ナメトコ山の熊」の話を思い出した。

305 マタニティーブルー メモ 時期不明

 朝のテレビドラマで、妊娠した母親の一種の「うつ」であるマタニティーブルーが話題になっていた。そういえば、マリッジブルーという言葉もあったなと考えていたら、今日のNHKの教育テレビのテーマはママブルーと呼ぶ「産後うつ」の話だった。

306 生きること、食うこと メモ 時期不明

 生きるってことは食うことだと、人はどうして理解しないのだろう。「腹減った」から「ひもじさ」へ、そして「飢餓」へ。現代日本人には誰も理解できない遠い昔のできごとである。ひもじさの消えた現代は、生きることの意味も希薄になった時代とも言えるのだろうか。今人は、生きるために食ってはいない。食うことと生きることとがまるで無関係になっている。ダイエットを続けていると時にひもじさを感じるけれど、それでも生きることとはどこかで切断されている。

307 正義の意味 メモ 2005.12.1

 世の中には正義があり過ぎる。赤い羽根に100円寄付するのも、アフリカやソマリアなどで飢えた子どもたちの世話をしたり、もしかしたら隣の小学校でどうして足算が必要なのかをボランティアで教えることだって正義だと思っている。正義とは言葉なのか言動なのか、それともそれとも単なる意見なのか・・・。

308 常識、非常識 メモ 時期不明

 ○ 自己責任〜相手にのみ要求し、自分には要求しない。
 ○ 昔は良かった〜そんなことばかり言って、「今がいい」とは言わない。

309 おいしいもの メモ 時期不明

 おいしいものばっかり食べていると、おいしいものがなくなっていく。若い女子アナが旅番組の中で刺身を口に入れて、「うーん、新鮮ですね」と感想を述べていた。「うーん」は定番だからいいけれど、味覚の中に「新鮮」はあるのだろうか・・・。

310 頼りない男たち メモ 2006.8.24

 スナックでのママと若いホステス相手の他愛ない話である。「最近の若い男は頼りない」という話になった。どのみち飲兵衛の少し下ネタかかった話だが、男が仕事やセックスにそれほど期待を持てなくなってきている表れなのかも知れない。

311 掛け声の使い分け メモ 2004.11.3

 今朝の新聞に音楽会で演奏が終わった後で「ブラボー」と叫ぶ人がいるが、本来それは男性演奏者に対してであり女性なら「ブラバー」、複数者に対しては「ブラビー」と声をかけるのが正しいのだそうである。そしてそれを混同してしまうのは禁句であるとも・・・。この「ブラボー」はイタリア語らしいが、何もイタリア人だけが演奏者だけじゃないんだから、正しい使い分けにこだわることはないんじゃないかと思ってしまった。そして逆に、そういえば日本語にはこうした場面での賞賛の掛け声がないことに気がつく。
 そしてもう30年近くも前になるが、東京で2年間の研修を受けたときに、東銀座歌舞伎座の三階席で一幕ものを見たときのことを思い出した。急な階段をトコトコひたすら昇りつめ、そして天井に近い席にたどりつく。舞台は遥か下に遠くしかも演者の頭をてっぺんからみるような感じである。そこは安い大衆席でもあるが、同時に好事家がひいき役者を見るために通う特別席でもあるらしい。そしてそこは、「音羽や」だの「成駒や」などの声をかける人の集まる場所でもあるのである。日本は歌舞伎だけに、特別な掛け声の場と語があったのである。

312 愛と復讐 メモ 時期不明

 「愛と復讐は人間の永遠のテーマなのであろう」(夏樹静子 時が証す P208)。であり、「本当の復讐は、単に相手を殺すことではない。被害者が受けたと同じかそれ以上の苦痛や恐怖を味わわせた末に止めを刺す。それはどれほどのカタルシスをもらたしてくれるだろう。」(同書P209)。

313 究極の兵器 メモ 2005.7.31

 戦後60年が経ち、それはそのまま広島長崎の原爆からの時間でもある。東京で開かれた原水協のテーマは、「原爆は究極の兵器です」だった。でも本当に究極なのだろうか。実用的に究極であることを否定するつもりはないけれど、兵器に限らずどんなものにだって人は「究極」を乗り越えて際限なく進化し続ける動物ではないだろうか。

313 いい子いい子 メモ 時期不明

 現代は「いい子いい子」に馴れ過ぎた社会のようだ。他人と付き合うということは、近所づきあいにしろ、結婚や就職にしろ、自分とは異質な存在と付き合うことである。現代のひきこもりやパラサイトには、「いい子いい子」と言われつづけてきた育ち方が影響しているのではないだろうか。もっとも、そうしたことが分ったからと言って、何の解決にもならないのだが・・・。


                                  雑記帳始末記(25)へ続きます


                                     2013.4.18     佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



雑記帳始末記(24)

自作のホームページに雑文を発表してから10年になる。資料として作成したメモや切り抜きなどは発表したつど処分しているが、作品にできなかったものが残ったままになっている。それは作品にするだけの力がなかったことを意味しているのだが、それでも私の感性に訴える何かを含んでいたことだけは事実であろう。このまま朽ちさせてしまうのもどこか忍びないものがあり、処分する前にここへ刻むことにした。