前回の(別稿「思い込みと身勝手」参照)でも書いたことだが、ことの良し悪しはともかくとして人はいつも単純化して物事を考えたくなるものらしい。そのことを人の常として了解できないことではないし、その人の中に自分も含まれていることも自認しなければならないであろう。
 だとすれば、そうした人の常が気に入らないからといって、第三者たる私が他者の論評にとやかく言うべきことではないことは理解できる。私は独裁者でも奴隷を使う主人でもないのだし、そうした意見の数々を言論の自由などと飾り立てて賞賛するまでもなく、意見の発表はそれぞれに任せられていると思うからである。

 だが、そうした意見を新聞とか書籍などに麗々しく書かれてしまうと、どこかで私の曲がったへそが、「チョット待て」とうずきだすのである。最近「アーロン収容所」(会田雄次、中公新書)を読む機会があり、またぞろそのへそが頭をもたげてきたのであった。

 きっかけは、この本の裏表紙に書かれていた書評じみた解説文からであった。そこにはこんなふうに記されていた。
 「・・・(この本)は、西欧ヒューマニズムに対する日本人の常識を根底から揺さぶり、西欧観の再出発を余儀なくさせ、さらに今日の日本人論続出の導火線となった名著である

 私のへその曲がり具合はまさに独断と偏見に満ちているのだが、まず気になったのはこんなに名著であるにもかかわらず私が彼のことをまるで知らなかったことである。知らないことが非常識なくらい彼は著名人なのかも知れない。知らないことを恥ずかしいとは思わないけれど、世界の西欧観に影響を与えるような人物の名をまるで知らなかったとするなら、私の知識の狭隘さは避けられないであろう。それを承知してでもなお私は彼の名を聞いたことすらなく、従って西欧観を揺さぶられるような何の影響をも受けることがなかったからである。

 この裏表紙の文章に引っかかったことが、本文に書かれた内容の違和感を増幅することになったのかも知れない。読み進めていくにつれて、その違和感がどんどんふくらんでいってしまったのである。

 この本は第二次世界大戦が日本の敗戦という形で終わりを告げた後、ビルマ(現在のミャンマー)で参戦していた著者がアーロンという名の収容所にイギリス軍の捕虜として収容されたときの記録である。捕虜の目から見た主としてイギリス軍兵士への思い、そして彼らに従属していたインド兵やビルマ兵に対する思いの記録である。もちろん著者自身もそうした思いに対して「・・・一時のそれこそ異常な状況が生んだ異常性格だったかも知れない。しかも、私自身の体験は、万年初年兵という日本軍隊の一番底辺においてであり、視野が片よりすぎているかもしれない」と書いているなど、その偏見の危険性を自覚してはいる。

 だからそうした意識のもとでの著者の思い、という意味ではそれがどんな内容であろうと、そしてそれがどんなに私の理解から遠かろうとも否定するつもりはない。「彼がそう感じた」、そのことを否定することなどできるものではないからである。

 ただそれでも、そうした彼の思いが「西欧観の再出発を余儀なくさせ、さらに今日の日本人論続出の導火線となった名著である」との評価とは結びつかないのではないかと、私には思えたのである。この本が出版されたのは昭和37年のことである(「あとがき」参照)。だとするなら戦後16年を経てからの出版であり、引揚船に著者が乗った昭和22年からでも15年を経たことになる。シベリアや中国、その他の南方地域での捕虜生活の情報は、様々な方法で十分知ることができた時代である。
 だから私は、彼の思いが偏見であって決して西欧観に結びつくようなものでないことを、どこかでしっかりと伝えておく必要があるように思えたのである。たとえそれがへそ曲がり論に過ぎないとしてもである。

 「仕事は楽だが、糞尿くみとりなど屈辱的な仕事が多い」(P52)
 仕事に好悪のあることを否定はしない。嫌な仕事を避けたいと思うのもまた人の常であろう。だがそれを屈辱的と表現していることは、彼の意識の中に糞尿くみとりの仕事が「人間として扱われていない」ことの強い証明として刷り込まれていることを感じてしまう。職業に貴賎上下の差別なしとまで単純に思っているわけではないけれど、誰かがしなければならない仕事があり、一方は捕虜であることを考えると誰がするかは自明なような気がしてくる。糞尿くみとりが快適な仕事だとは思わないけれど、監督者と捕虜とがいて、その仕事を命ぜられたのが捕虜だったということに、それを屈辱的と感じてしまうのは少し変ではないのだろうか。イギリス軍自らが、彼の言う「糞尿くみとりという屈辱的な仕事を率先してすべきだ」と本気で考えているのだろうか。

 「ところがある日、このN兵長がカンカンに怒って帰ってきた。洗濯をしていたら女(兵士)が自分のズロースをぬいで、これも洗えといってきたのだそうだ」(P49)
 この前後の記述も含めて、彼はイギリス軍の女兵士たちが捕虜を男として見ていないことを縷々非難している。着替えや下着姿のまま目の前を歩くことに対しても、捕虜が男であることを無視しているとの批判もする。書いてあることが分らないではない。捕虜も対等な人間として扱え、とする気持ちが理解できないではない。でもそうした無視の態度を、あたかも「人間として否定された」かのようにまで感じるのは過剰な反応であるような気がする。捕虜を対等以下の存在と見ているだろうことは否定できない。だが、捕虜であること自体のなかに、少なくともそうした要素が存在しているのではないかと思うからである。

 著者の基本的な姿勢は「人間らしく扱え」であろう。その主張は正しい。捕虜といえども人間であり、基本的な人権を持つ「人」であることは、仮に敵対的な関係にあったとしても守らねばならない義務であろう。でもどこまで「対等」が守れるのかはとても疑問だと思う。

 捕虜は常に虐げられるだけの立場でしかないのだろうか、それもこの本を読んで感じたことの一つであった。捕虜はもちろん監視され、行動も制限されるだろう。それは「人権」とは無関係であり、捕虜という立場からくる当然の制約であろう。だがそうした監視の目を盗んで行う捕虜の行為は全て許されるのだろうか。私には「監視されている不自由さ」を言い訳にした、捕虜の勝手気ままな思い込みがそこにあるように思えてならない。

 彼は捕虜時代を「泥棒時代」とのタイトルを設けて、時に自慢げに語るのである。「(捕虜としての作業がイギリス軍の都合によりなくなるのが嬉しかった)・・・『泥棒時代』になると、隠し持った缶詰を開け、手に入れたこれこそ人間用のビルマ米を炊き、あぶれた友人を招いてゆっくりと多少人間らしい食事をするたのしみがある。働きに行っている戦友のため、水浴用食器洗い用の水くみ、掃除くらいはもちろんやっておくのが仁義である。それからマージャンをやるなり、昼寝するなりである。病気もたのしいことの一つであった。・・・ときどき仮病もつかった」(P55)

 一方において彼は「・・・ケガ人や病人は日本の軍隊よりずっと大切にしてくれたような気がする」(P58)とも、また「・・・その地区の司令官や所長の自由裁量にまかせる点が多かったのであろう。その人柄如何で大きな差があったようである」(P40)とも言っているのである。

 こうした捕虜による盗み、さぼり、仮病などは日常茶飯事に行われている。そして著者は自らがそうしたことをやったかどうかは別にしても時に自慢し、時に嬉しげに、そして時に当然のことのように語る。そうした行為を一概に批判することはできないだろう。監督されることに逆らい、命じられた仕事を怠業することなどの敵の利益を妨害する行為は、捕虜としての当然のことでもあろうからである。

 でも捕虜となった日本軍人の盗みなどが、そうした目的にあったとは著者は一言も書いていない。もちろん著者自身が初年兵であって、たとえ内部的にもせよ何の指揮命令権も持っていないことを自認しているのであるから、そうした指令を出す立場にないことは当然かも知れない。また、彼自身の気持ちの中にそうした発想そのものがまるでないのである。つまり、盗みやサボタージュなどの行為は、「捕虜となった兵隊が捕虜の義務として行った敵への正答な妨害工作である」などの思いは片鱗すらなく、純粋に盗みなどだけを目的としていたということである。


                                 アーロン収容所(2)へ続きます


                                     2014.10.4    佐々木利夫


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アーロン収容所(1)