「あなたの癌は、がんもどき」(近藤誠 著、梧桐書院)を読んでいる。きっかけは、昨年5月に自分が癌だと告げた仲間から9月頃に「今こんな本を読んでいる」と知らされたのが原因である。私としては癌に関して特に興味を持っていたわけではなかったのだが、その仲間と二人で事務所で一杯やっているときにそうした話題になったのがきっかけである。「がんもどき」の話はこの時に彼から聞いたのが始めてだったが、最近人気の高まっている著者だそうで、説得力のある内容なのだと彼は語る。彼から「自分は癌だ」と告知を受けていたこともあって、図書館の蔵書にあるかどうか確かめてみたくなった。

 最近は本を買うことが少なくなり、つい図書館で間に合わせてしまう。しかも図書館の予約システムは、札幌市全部の図書館・図書室に備え付けられている蔵書が対象になっていて、私のパソコンからでも直ちに検索と予約ができるようになっているのは至極便利である。そして更に私の希望する本のほとんどがその中に含まれていることは、私の読みたい本の趣味がそれほど特異な分野に偏っていないことでもあるのだろうが、逆に驚いている始末である。ただ図書館での購入予算が限られているせいか、人気のある本は数十人から数百人もの予約待ちになる可能性のあることは覚悟しなければならない。

 飲みにきた仲間がすぐ隣で眺めている中で、早速事務所のパソコンから市立図書館を呼び出し蔵書検索をかけてみる。なるほど数箇所の図書館や図書室などに登録されていることが分った。だがこれだけでは仲間の言う「最近人気がある本」なのかどうかについてはまだ分らない。そこでどのくらいの人がこの本を借りたいと待っているかを予約して確かめることにした。出た、出た。100番台か200番台かは忘れてしまったけれど、私の予約はかなりの後順位に表示された。つまり、それだけ人気の殺到している図書であることが、少なくとも「待ってでも読みたいと申し込んでいる人がこれだけいる」という意味では明らかになったわけである。

 予約は任意に取り消しができる。だからそれほど興味のない本ならば、仲間との話題である「人気のある本」であることは確認できたのだから、そこで取り消しをしてしまえばそれまでのことだっただろう。ところがどうやら酒に紛れ、他の話題に紛れてしまったなどで取り消しボタンのクリックを忘れたらしい。図書館のシステムは私の予約を正式に受け付けることになった。

 他にも予約している本は数冊あるので、それらの本の状況(順位はどのくらいか、あとどのくらいで私の順番が来るのか)は時々チェックはしている。だからそのついでにこの本の予約をキャンセルすることは可能である。ただその都度少しずつ順番待ちの番号が減っていくことに、ある種の引っ掛かりが残ることに気づいてきた。どことなくこの予約、もしくは予約順位の減少に愛着みたいなものを感じてきたのである。

 予約中と言っても格別順番を待つための努力が必要なわけではない。単に予約している状態を放置しておくだけで、図書館側がきちんと管理してくれている。待つこと数ヶ月、その内に「予約順位が少しずつ減っていく」という現象に、どこか励みみたいなものが感じられてくるようになる。その励みは逆に「読んでみてもいいかな」と思う気持ちの高まりを後押しするようになる。年が明けて1月になり、順位が「1」になって間もなく「回送中」の文字がネットに表示されるようになる。そして翌日か二日後には、「あなたが希望した図書館にこの本の用意ができているので、一週間以内に取りに来てください」とのメールが私に届くのである。

 読むか読まないか、読んだふりして返却するか、途中で放り出すか、それはまったく私の任意である。だがこの本が私の手許に到達した経緯を考えると、「まるで読まない」という選択肢はどうもしっくりこない。少なくとも私に癌であることを知らせた仲間はこの本を読んだのであり、この本(同じ著者による似た内容の本が数冊出版されているので必ずしも同じ本だとは断定できないのだが)に影響されて、彼は自らの治療方針を決めたのだからである。

 この本を私に読ませることが彼の意思だったとは思わない。だが目の前にあるこの本は少なくとも彼の目の前で予約した本であり、その予約にはどこか彼の思いが残っているような気がする。彼は癌の告知を受けてから僅か半年しか経っていない昨年11月に、私がこの本を読む前に突然に逝ってしまったのである(別稿「彼との長い付き合い」、「ガン告知」、「ガンとの闘い」、「逝ってしまった」参照)。

 この本が私の手許にある要因のそもそもは逝った彼にある。彼なくして、この本と私との出会いは恐らくなかったことだろう。つまりは、これも彼にまつわる何かの因縁なのかも知れない。それに従う必要はまるでないけれど、そうした因縁を引きずることもまた、彼に対する思いの一つでもあるような気がしてくる。

 同時並行で読んでいる小林秀雄の「無私の精神」とこの本とは、なかなか呼吸が合わないけれど、がんもどきの本は読みやすくまた、分りやすい書き方になっているように思う。どこか独断的な感じのしないでもないけれど、著者の意見に亡くなった彼が共感したのだろうくらいは私にも伝わってくる。

 つい数日前に、一週間ほどかかったけれどどうやらこの本を読み終えることができた。そして読み終えて、どこか引っかかるものを感じてしまった。書いてあることが「分るけれど分らない」、そんな気持ちに襲われたのである。
 そのことについては稿を改め、このエッセイに続けて「がんもどきを読み終えて」の中で書くことにしよう。亡くなった彼について書いたエッセイ(別稿「そうか、君はもういないのか」参照)でも触れたところだが、彼が私の中でなかなかあっさりとは死んでくれないことが、こんなところにも表れてくる。

                            「がんもどきを読み終えて(上)」へと続きます


                                     2014.1.9    佐々木利夫


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