もちろん私は必ずと言ってもいいくらい、インターネットはもちろん新聞・雑誌・テレビなどに関しても引用文書の出典や発表日時などを表示することにしているので念のため・・・。

 とは言っても、したり顔で傾けている故事来歴のうんちくやことわざや最新ニュースに関する知ったかぶりなども、考えて見れば出典を省略したコピペの一種になっているのかも知れない。そしてもしかしたらそれ以上に日常的に使っている言葉遣いだとか、いわゆる「常識」と呼ばれているようなことどもも、つまるところは無意識による「先例の物まね」に過ぎないと言われてしまえば返す言葉がないような気さえしてくる。

 ともあれ、コピペは小説や音楽や漫画や学術論文の世界にまで普及し、他人の成果を勝手に自分の成果に転嫁させてしまうような結果は、社会的な問題にさえなっている。時代の変化が情報をデジタル化する方向へと動いてきていることから、こうした傾向はこれからますます増えていくのかも知れない。

 ところで、私たちが知識として情報を得てそれを自分なりに消化し、ともすればその知識を自分のものとしていく過程は、一種のコピペと言っていいのかも知れない。一般的にはそうした行為を「学習」と呼ぶけれど、学生時代に限らず入試や資格取得などの試験で「暗記した知識を利用する」ことはまさに「コピペ」なのかも知れない。そしてそうした知識が、仮に発信者の意図する内容とは違って理解していたり、もしくは自分が間違って記憶してしまった場合には、その間違いが少なくとも私の記憶の中では長い間続いてしまうことになる。

 こんなことが気になったのは、私が聖書の一部として記憶していた聖句の理解がどこか違っているのではないかと最近気づいてしまったからである。キリスト教を信じているわけではないけれど、聖書もまた私の好きな物語の一つである。ここに発表しているエッセイでも、何度もそして何箇所も聖書を引用したことがある(別稿「ヨブ記1・神と悪魔のゲーム」及びそこに引用してある、「バベルの塔」、「ロトの妻」、「ノアの箱舟」などに関するエッセイ並びに「裏切り者でなかったユダ」などを参照のこと)。

 そうした中にどこで引用したのか記憶にないのだが、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」の一文がある。創世記第9章1節の有名な聖句である。私はこの一言を人間に対する神からの祝福であると、長い間信じてきた。人類の繁栄を願う神の祝福の言葉だと迷うことなく信じてきた。ところがつい最近、それが中途半端な理解になっているのではないかと気づかされたのである。そしてそれは、私の「生き物に対する命への思い」そのものを変えなればならないほどの内容を持っているのではないかと思い始めたのである。聖書の言葉は、先の引用に続いて次のように書かれている。

 「・・・地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える」(創世記9章1〜3節)

 確かに9章の入口は、神がノアとその子孫に与えた祝福の言葉である。神は信心深いノアとその子孫の繁栄を願って地に満ちるほどにも増えるようにと祝福した。だが、私の理解はここで止まってしまったのである。僅か数語の「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」の部分だけで、私は9章の意味を理解したつもりになっていたのである。

 だがこれに続く言葉は、人を除くすべての動植物が人類の食物であることを示していたのである。確かに「人の血を流すものは、人に血をながされる」(9章6節)として人の命を奪うことは禁じていることは分る。そしてこれに続く「しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない」(9章4節)にしても、楽しむために動物を殺したり必要以上に食べてしまうことへの警告であると理解することもできる。だが私はこのフレーズに触れたときに、聖書は「人の命と動植物の命とは完全に切断されている」ことに気づくべきだったのである。
 それは神が自分に似せて人を創った(創世記1章27節)ことからくる必然なのかもしれない。人の姿は神の姿なのであり、このことは必然的に人以外は神とは異質な存在であることを示している。つまり、人以外の動植物はすべて「人のための食物」として神は創ったのだと、私はきちんと理解すべきだったのである。

 もちろんキリスト者でない私が聖書に従う必要はないのだし、私が聖書を正しく理解していなかったところで、それをことさらに取り上げて誤りを糺す必要もないだろう。ただ、キリスト教はユダヤ教やイスラム教ともつながる民族や人類を二分するような宗教の流れにつながるものであり、もしかしたら私の理解している「命」とは、東洋的な限定された思いに縛られていて、西洋のそれとは異質なのかも知れないと、ふと感じたのである。

                                    地に満ちよ(2)へ続きます


                               2014.5.23    佐々木利夫


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地に満ちよ(1)

 こうして10年以上ものあいだエッセイもどきの雑文を書いていると、他人の文章を引用する機会がけっこう多くなる。最近はインターネットが普及して、他人の文章をコピーしてそのまま貼り付けるいわゆるコピーアンドペースト「コピペ」が氾濫し、引用先の表示がないと自分の意見なのか他人の思いなのかの区別がつかなくなってきているようだ。