「こんなことになるとは思わなかった」、自らに責任が及ぶかのような事故や災害などが起きたとき、多くの場合こんな弁解の言葉で経過づけられることが多い。それは、個人に限らず会社や自治体や政府などが、いわゆる自らの責任を少しでも軽くしようするときに使う言葉であり、「想定外かつ不可抗力」であったことに責任を転嫁したいとする弁解の言葉である。

 そしてこうした言葉に次いで、「再発防止に努めます」という語を添えてその問題の収束を図ろうとする。そして私たちもそしてマスコミも含めて、それ以上の追求をしないのが暗黙の了解事項になっている。たとえそうした言葉に納得した場合はもとより、はたまたいつもの一過性の常套句だとして諦めてしまおうともである。そして更に将来にわたっても、「再発防止」がどんな形で行われるのかを検証するようなことはしない。

 もとより「想定外であるケース」をどんな場合にも認めないというわけではない。東北大震災で発生した原発や津波による事故のときに、多くの団体や政府が、被害を拡大したのではないか、事後の対応策が不十分だったのではないか、などとその責めを疑われた。そしてそれらの団体や政府がそうした追求に対する責任回避の渦中に入り込んでしまい、結果として「想定外」を乱用することで世の批判を浴びた。当時は「想定外」という言葉そのものが禁句とされるような事態にまで発展したような気がする。

 私は「想定外」を禁句とするような風潮には反対である。どんな事故対応でも、「ある種の想定」をしてその想定に対して予防措置を講ずるのは当たり前のことだと思っているからである(別稿「原発の未来」、「想定外」参照)。ただ、どこまで想定するのか、その想定の程度が問われていることを忘れてはなるまい。想定なしには対策そのものが立てられないとする思いを、一概に否定することはできないだろう。

 でもこの思いを単に「否定できない」と断じてしまうのは早計なようにも思う。想定を可能な限り拡大して、例えばその最大を100とし、「100の被害が想定されるけれど、現在の予算なり人員の下では、50までしか対処できない」とする考えも可能だと思うからである。

 「可能な限り対処します」として、あたかも100点を目標としているかのように行動することは、確かに勇ましいことだと思う。だが、100とした目標を超える様々が矢継ぎ早に発生し、その度に「想定外」をくり返すことは、理屈の上では確かに想定外かも知れないけれど、最初から「過小の想定外」を予想していたこととなんにも違わないような気がする。そうした時に、「100点を掲げた行動」というものが、果たして何だったのだろうかと思ってしまうのである。

 こうした疑問の背景には、どんな考えも基本的に性善説で組み立てられていることがあるのではないだろうか。その上に立って「悪を罰する」、「悪を否定する」、「悪を是正する」などの対策を考えているのではないだろうか。私には、ここに「想定外」の入り込む余地が生まれてくるように思えるのである。人も自然も基本的に、「人にとって悪の状態を生み出すことはない」ことを基本に置き、そこから私たちの思いが出発してしまうから、どんな対応も想定外になってしまうのではないだろうか。

 つまり私が言いたいのは、もしかしたら「性善説」という考え方そのものが、少なくとも人類が発見した最大の誤りになっているのではないだろうかということである。

 性善説という美名の下で、人はこれまでどれほどの苦しみを味わってきただろうか。人は「性善説」を時に信頼、時に信用、時に安心安全と呼んで、その中に自らの人生のほとんどを埋め込んできた。時に生きることそのものを埋没させてしまった人もいることだろう。

 もちろん私たちは「情けは人のためならず」や「渡る世間に鬼はない」と言って、人が人を信じる側面と「人を見たら盗人と思え」との疑念を対立させることで、過度な信用を戒めることの両方を学んできたことは事実である。法律でも民法が契約自由の原則をうたったのは、互いが交わした約束は互いが必ず守るという基本を背景とし、それに違約条項を書き込むことでその危険を回避することがあったからだろう。

 だが人の約束は互いが対等の立場で交わすものだけに限らなかった。国家と私人との契約、企業と私人との契約、私人間でも法律の知識のある者と無知な者との契約などなど、「互いに対等」という場面は神話であり、現実的には極めて稀にしか現れてこないことを人はやがて知ることになる。

 そうした契約社会の中に、私たちはどっぷりと漬かっている。そうしたしがらみから抜け出すことなど不可能な時代に私たちは生きている。それはもちろん自分たちが、契約という形にしろ選挙という形にしろ、そうしたことどもを自らの人生に重ねることを承認したことに原因はあるのだろう。今ある現実は、まさに自分たち自らが作り上げてきたものだといえるからである。

 性善説がどんな場合も許されないのか、私にも確信を持って言えるかどうか疑問である。性悪説のみで人類が今より良い社会を作り上げることが可能なのかどうかもきちんと理解しているわけではない。ただ、現代が性善説を背景に作られているように思える様々なことが、社会や人々の生活の中で責任回避や責任放棄の素地を生んでいるように思えてならないのである。そこに多くの人が逃げ込んで、自らを無関係の高みに置こうとしていように見えることが、たまらなく嫌なのである。

 もしかしたら、性善説・性悪説で二分するようなことそのものが間違いなのかも知れない。自然や人間の現象や行動をどちらかに分けてしまうのではなく、少なくともニュートラルな受け止め方をする必要があるのではないだろうか。

 それは私自身の中にもこの両者が混然として存在しており、しかも時として、そして場合によって、それを「自分のエゴ」と位置づけるのは嫌なのだが、それほど厳然と区別できるものではない。自分の中にある性悪、性善の区分は、自分で思うほど、そして社会が常識として考えている区分ほど、画然としているものではない。その差はずっとずっと小さいことに気づいてしまうからである。


                                     2014.12.17    佐々木利夫


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