原発の安全性については昨年だけでも何度もここに書いてきた(別稿「
鬱・毒ガス・汚染水」、「
汚染水の行方」、「
放射能・ここだけは・・・」参照)。けれども専門家からも政府からも、安全についての納得できるような見解は見当たらないように思う。東京都の猪瀬知事が昨年末に特定企業から資金提供を受けたとの疑惑が浮上して辞任し、その後任選挙が今月23日告示、2月9日投開票で実施されることになった。東日本大震災で崩壊した福島原発は、基本的には東京都の電力供給を担うためのものであり、知事選でも原発再稼動の是非が大きな争点になるような気配である。
なぜ原発がこんなにももめているのか、それははっきりしている。安全に対する決定的な答えがないからである。例えば噴火である地域が全滅したとしよう。その全滅は、被災の時で区切りがついている。次の噴火がいつ起きるのか、それをどう予想するか、予知のための調査をどう続けるかなど、不安材料がないわけではない。明日にも大噴火があるかも知れないし、それは来月なのか、また数十年後なのかは誰にも分らない。次を予知することは今の科学ではなかなか分らないだろうから、そうした不安が解決できないことは理解できる。
ただ、次の大噴火までは「一つの安定した期間」がそこにあることだけは言える。その期間を利用して瓦礫を片付け、土地を造成し、新しい住宅や商店をそこに建てる、そうした復興が誰にも理解できる形で進んでいくだろう。もちろん、災害の後遺症は多く残るだろうし、解決しなければならない課題も残るだろう。でも原発事故とはまるで違う形でその復興は続いていくと思うのである。
その違いは、基本的には「原発の安全」が誰にも保証されないことにある。「絶対安全」など、決してあり得ないことくらい、誰もが理解しているだろう。大噴火だって「絶対に起きない」との保証はないし、「仮に起きても絶対安心」との対策もまた無理だろう。それは津波や豪雨や大雪などの自然災害のみならず、隕石の衝突や全地球凍結のようなSFじみた災害でも同じである。また、なんなら新型のウィルスによるパンデミックによる人類の危機だって考えられるだろう。
ただそうした危機は、私たちの想定できる意識のレベルで理解可能、もしくは理論的根拠なしの独断的な思いかも知れないが、「そんなことは起きない」と無視してしまえることで解決できる危機である。恐らく隕石が地球の、日本の、北海道の、札幌の、私の住んでいる地区に落ちてくることは、確率的にはあり得ても私はその確率を無視して生活していけるだろう。そうした無視の思いは間違いかも知れない。常に豪雪に気を配り、歩道を歩くときも酔っ払いや脳梗塞で意識を失った運転手が車で私目がけて突っ込んでくることを常に意識して歩くとか、ビルの屋上から何かの物体が落下してくる危険に気を配るなど、常に我が身に降りかかる事故なり災害に対処していることは必要だとは思う。
だが私は、横断歩道は信号を守って歩くとか、対抗する人の流れや雪道を滑らないように歩くくらいの注意しか払うことなく日常を過ごしている。それは自分の身が安心であることに対する過大な信頼なのかも知れない。でも世の中のほとんど、恐らくは全部の人が「万が一を考えながら、常に自分の行動を律しながら行動している」ことなどないのではないだろうか。
それは「程度の問題」なのかも知れない。「隣家の火事」や「隕石落下」が、恐らく日常的に24時間心配しながら過ごすほどの差し迫ったものではないだろうとの安心感がそうさせるのだろう。そんな安心感は身勝手な間違いだと言われてしまえばそれまでのことである。どこにもその安心感を支えるくれる根拠などないのだから。
でも私たちが生活していけるのは、これまでの我が身の経験や歴史などから学んだいわゆる「常識」と、そして例えば警察や消防といった行政や国の防災などに対する信頼などが支えているのだと思う。そして国や行政に対する信頼というものも、結局は私たちが日常生活を営む上での「常識」に組み込まれているのだと思うのである。
ところが、原発だけは違うのである。基本的に安心に対する「信頼」が欠けているのである。原子炉からも汚染水からも、そして周辺地域の瓦礫や地面からも放射能は依然としてカウンターを鳴らしている。そしていったん事故が起きたときに、どれほどの経済的・精神的な苦痛を受けるかを、私たちは身を持って体験しつつあるのである。もちろんどんな災害だって、被災者の苦痛はある。癒されない苦痛だって多々あるだろう。でも私たちは原子炉崩壊で、これほどの規模で、これほどの長期にわたって被災を受け続けるような災害をこれまで経験したことがない。
その災害が避けられないものであり、修復には長い時間をかける以外には対策がないなら、私たちはそれを耐えるしかないし耐えていけるだろう。高い防潮堤を作り、高台に町を移転し、津波に耐えられる建物を作る以外に対策がないのなら、人はその不便さや苦痛に耐えるしかないし、きっと耐えていけるだろう。これまでも、人はそうしたことに耐えてきたのだし、これからも耐えていく力を持っているだろう。ただそれは、耐える以外に手段がないからである。
原発は違うのである。原発は止めることができるのである。原発を止めたところで、これまでに出た放射能を多量に含んだ廃棄物や廃炉にした原子炉などの放射能は消えないと言う人がいる。それはそうだ。現在残されている放射能に関するもろもろの廃棄物は、原子炉を廃止することで消えてしまうわけではない。それは、私たちが原子炉をこれまで利用してきたのだから、その処理は我が身で受けるしかない。どんな方法や手段があるのか、またないのか、それは分らないが、その始末だけは私たちが耐えるしかない。
それでも、再稼動に伴う新たな廃棄物の産出だけは止められるはずである。石炭や石油で電力を作ることは、二酸化炭素の排出という問題はともかく結局石炭・石油を消費することだった。そして使った燃料は少なくとも「灰」という我々が理解できる無価値なものとして残ることを意味していた。だが核燃料は違う。使用済み核燃料は、プルトニュウム再利用という手段は考えられているものの、更なる高レベルの放射能、しかも「これ以上再利用できない放射能を含んだ廃棄物」を生み出すことになるのである。
それにもかかわらず、「現在の文明を支えるのに必要な電力を維持するためには原発が必要である」との理屈が、原発反対を唱えるどんな理屈をも押しつぶそうとしているのである。
もちろん再稼動を主張する理屈には、「原発の安全」が常に背後にはある。だがその安全を、少なくとも私は「信頼できる安全」にまでは到達していないように思えてならない。
それは、これまでにも書いたように、放射能を消す技術はまだ発見されていからである。まず、その前提として、放射能の影響が誰にもきちんと理解されていないことがあげられる。放射能は目に見えず、しかもその影響たるや被爆という身体への直接的な障害だけでなく、遺伝を通じて子々孫々にまで被害が伝わるとの思いがある。
もちろん程度の問題はあるだろう。自然界にだって宇宙から飛び交ってくる放射線があることは理屈では分っている。だがそうした放射能の強さに比べて例えば原発被害による「○○シーベルト」と言った数値がどの程度人体に影響があるのかが国民に伝わっていないのである。政府も識者もとりあえ安全基準と称する数値を発表しているけれど、それがどこまで安全かは誰も知らないのである。絶対安全であるとの信頼が、国民に伝わっていないのである。絶対安全の信頼がない以上、国民は「とりあえず安全だろう」程度の政府見解ではそれを信頼するわけにはいかないのである。
そして一方において、少なくとも新たに発生する放射能に対する対策は可能なのである。これまでに発生し、そして残されたままになっている放射能については、それは私たちが耐えなければならない。たとえ子孫に影響があるとしても、自らが作り出した放射能なのだから耐えるのが筋である。でもこれから発生する放射能については、原発廃止を選択することでゼロにすることができるのである。
「放射能をゼロにする技術の発明・発見」、もしくは「数十万年にも及ぶ絶対安全の事実と素人にも理解できるような言葉による保証」のいずれかなくしては、私たちの中に放射能の心配が消えることはないだろう。だとするならこのことなしに、原発の新設や再稼動に対する国民の理解が得られることは、決して・・・ない。
2014.1.15 佐々木利夫
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