物忘れを自覚することは、歳のせいだと納得する部分と認知症の始まりかなとの恐れとが混在することがある。もっとも「物忘れ」の内容によっては、公表することがときに鼻持ちならない「自慢話」に聞こえてしまうことがある。つまり、「部分的には忘れてしまっているけれど、俺はこんなことも知っているのだ。知っていたのだ。どうだ、恐れ入ったか」みたいな話題になってしまうことがあるからである。

 これから書くことは、決してそんなつもりはないのだが、もしかしたらそんな臭いがするかも知れないことを危惧しつつ、記憶力の低下が身近になってきたことを自覚する事件が起きことを書き留めたい。

 単純に言うと作品と作者の名前が出てこないのである。毎日の通勤は歩行中はイヤーホーンから流れるラジオのクラシック音楽を、駅の待合室や電車内では読書するのがほぼ定番になっている。今朝のことである。耳慣れた音楽が流れてきた。こんなときには興にまかせて、ストコフスキーまがい(別稿「1940年のファンタジア」、「ステレオと指揮棒」参照)に指揮棒なしの右手を小刻みに振りながら歩くことが多い。ただ今朝は軽い雨模様だったので、片手に鞄、片手に傘のスタイルだったこともあり、聴いているだけであった。

 耳慣れた音楽と書いたけれど、私が作曲家とその作品を直ちに結び付けられるだけの知識は、残念ながらそれほど多くない。ただイヤホーンを耳に差し込むときは既に番組が始まっているので、その曲の作曲家が誰なのかを想像するのも聴くことの楽しみになっている。特に今朝の曲は、とても耳慣れた曲だった。ところがそれにもかかわらず、どうしてもすとんとその曲の名前と作曲家名が浮かんでこないのである。

 こんなことはそれほど珍しくはない。ある曲が誰の作品かというのは、私の知識が乏しいこともあって、すんなり結びつくのはせいぜい数十曲くらいだろうからである。流れているのは交響曲だし、曲調からして恐らくモーツアルトかベートーベンだろうとの見当をつけた。とは言ってもその根拠は、メロディーが華やかならモーツアルト、力強いリズムが中心ならベートーベン、そんな程度の割り切り方でしかない。ベートーベンの5番「運命」、6番「田園」、9番「合唱付き」程度なら悩まずに分るし、モーツアルトだって41番「ジュピター」くらいなら間違うことはない。だがそんな中にこの曲は当てはまらない。そうなると、いっそう曲名や作曲家が気になってしまう。

 つまり、聞いているのが誰の何という曲かが気になって音楽に没入できないのである。本来ならオーケストラや指揮者まで分ると完璧なのだが、わたしの聞き分けられる指揮者は私が始めて自分の金で買ったブルーノ・ワルター(1876〜1962)の指揮するベートーベンの5番、9番の2枚組の赤いレコードくらいなので、そこまでの要求は無理である。

 聴いていてチャイコフスキーかなと迷ったこともあったのだが、ベートーベンに決めた。そして迷いつつも「きっと第7交響曲だ」とも決めた。とりあえずこれで解決である。内心に僅か迷いは残っているものの、いずれこの演奏が終わればアナウンサーから曲名の紹介があるはずだから、当否はそのときに分るはずである。ところが聞き始めたのが曲の始まりの部分だったのだろう、通勤中に演奏が終わらないのである。事務所に着いても曲はまだイヤホーンから流れたままである。

 事務所に着きいつも通り椅子に腰かけても、曲はまだ続いている。そのときふと思った。NHKラジオはパソコンでも同時放送しているはずである。確か「ラジルラジル」という名称だったと思いついた。早速パソコンのスイッチを入れ、検索欄からこのホームページを探し出す。イヤホーンよりは、パソコンのスピーカーで聴くほうが少しはましだろうとの思いもあった。

 ホームページが表示され、FM放送のアイコンをクリックする。ラジオよりも僅かではあるが時間差を置いて同じ音楽が流れてくる。と同時にその画面に曲目も表示された。なんとそこにはモーツアルトとあるではないか。曲名は交響曲35番「ハフナー」と表示されている。私が通勤時間中あれほど悩んだ末に結論付けた曲名・作曲家名が、もろに外れていたのである。まあ「モーツアルトかベートーベン」とまで絞ったのだから、そうした意味では丸っきりの的外れというわけではないかも知れないが、私の自信はあっけなく崩れてしまったのであった。

 「モーツアルトのハフナーって、こんなに親しみのある曲だったっけ」との疑念は持ちつつも、私は聞いている曲がモーツアルトのハフナーであることに納得し、やがて曲は終楽章を迎えコーダに入る。女性アナウンサーが作曲家、曲名、指揮者、管弦楽団の紹介をする。

 このときなんと逆転が起こったのである。今の今まで流れていた曲は、ベートーベンの交響曲7番だったのである。パソコンの「ラジルラジル」欄に表示されていた曲名は、放送している曲の紹介だったのではなく、その日に放送されるいくつかの曲目の代表を表示していただけだったのである。つまり書かれていたのは「今日はモーツアルトの交響曲35番ハフナーその他を放送します」との意味でしかなかったのである。

 今日の「クラシックカフェ」で流すクラシック音楽は、モーツアルト交響曲35番、・・・、ベートーベン交響曲7番であり、たまたま最初に流したのがモーツアルトの曲だったことから、それをホームページに紹介しただけのことであり、私の聴いていたのは「その他の曲」のほうだったのである。

 これはショックだった。私が通勤途中にこの曲だと決めたのはベートーベンの7番であり、最終的にそれが正解だったことに違いはない。だとすれば私の記憶に快哉してもいいはずである。だが私はこの曲をモーツアルトだと納得したのである。これは「どちらの作曲家の曲か迷っている」、そしてそれが結果的に「ベートーベンだった」というのとは違うのである。私のよく知っている(はずの)7番を、モーツアルトの作品であると納得し承認してしまったからである。迷いからの解放ではなく、確信から間違いへのまさに逆転になってしまったからである。

 私の確信は、まったくの嘘だったことになる。納得し信じたことが、ものの見事に間違いだったのである。そのことは「物忘れ」程度の軽い思いとは異質であった。私の中でベートーベンの第7交響曲は、忘れるはずなどないほど代表的な曲だったはずである。それは運命交響曲、合唱付き交響曲と並ぶ、忘れるはずのない曲の一つだったはずである。にもかかわらず見事に忘れ、しかもモーツアルトの交響曲であると確信までしてしまったのである。

 このショックは自分でも驚くほどであった。「忘れた」、「記憶違いだった」では済まされない、まさに認知症突入への疑いを抱かせるまでのものにまでなってしまったのである。「早とちりに翻弄された今朝」と言ってしまえばそれまでのことかも知れないけれど、私にとっては「老化への一里塚を踏み出した」ことを疑わせるほどのショックだったのである。

                                   2015.9.3   佐々木利夫


 2015.9.12 追記

 ところで上記の文章を読み返しているうちに、このショックに更に追い討ちをかけるような事態が出てきたのである。私は曲名とその作曲家まではいくらか分るけれど、指揮者までは分らない、せいぜい私が持っているレコードのブルーノ・ワルター指揮ベートーベンの第九くらいなものだと書いた。読み返しているうちにこのことに、「アレ、チョット待てよ」と自信がなくなってきたのである。指揮者が「ワルター」なのかどうか混乱してきたのである。「もしかしたらシャルルミンシュ指揮、ボストンシンフォニイじゃなかったか」との疑念が頭から離れなくなってしまったのである。それで自宅に戻ってから、あわてて書棚の奥で眠ったままにいるレコードを引っ張り出してみた。何とその通りだったのである。レコードのケースには「シャルルミンシュ指揮、ボストン交響楽団」とはっきり書かれていたのである。私はここでの文章で、ベートーベン7番の間違いのほかに、「聞いただけで指揮者が分る」と豪語していた指揮者名までをも間違っていたのである。いよいよこれで、私の認知症への疑問は、更なる次の一歩へと疑いを深めることになってしまったのである。


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老耄の自覚