政治というものが抽象的に存在しているような気もしているが、他面、政治を動かしているのは大きくは人としての国民であり、個別的には政治家という個人もしくは政治家集団たる政党を基本とした国会だとも思えてくる。だとするなら、政治と政治家とはどんな風に結びつけて考えたらいいのだろうか。

 「政治」なんてあっさり言ってしまうと、それは一種の抽象的な捉えどころのないものになってしまう。政治と言うのは一種の国の運営であり、国を構成する国民の生き様の総合でもあるだろうからである。恐らく外交から個々人の社会保障まで、およそ「国の存立」にかかわるすべて、国を構成する国民それぞれのすべてが「政治」という抽象の中に含まれてしまうのだろう。

 そしてこれが一番難しいところだと思うのだが、国民にとって「何が正しいことなのか」が必ずしも一義的に決めることができないことにあるような気がしている。先々週、この欄で正義の多様さについて書いたばかりである(別稿「それぞれの正義(1)(2)」参照)。恐らく政治もその国を構成する「国民にとっての正義」を目指すものなのだろうが、その正義が一義的に決められないことが政治を不確定にしている。

 しかも、不確定だからと言って政治は「政治として動く」ことそのものを保留や一時停止状態にさせておくことはできない。仮に現状を留保の状態で停止させたままにしておいたところで、それは「停止状態」を選択したという意味での政治の動きになってしまうからである。世の中のほとんどがそうだと思うのだが、政治もまたビデオ再生の一時停止のような静止状態を保つことなどできないからである。

 そのために人は「多数決」という手法を編み出した。ある意図に対して、その意図を決定する集団(国際的な集団、国民の代表としての国会、株主総会、会社、家庭<、グループなどなど・・・)を構成する構成員の過半数の意見を以って、その集団全体の意思であると擬制する方式である。100人の集団なら51人以上の意思をグループ全体の意思とする方法である。

 ただそうして決定された意思が、果たしてグループ全体の意思だと擬制することがどこまで妥当するかどうか、そしてどんな方法でそれを確かめたらいいのだろうかはまるで別問題である。

 前述した「それぞれの正義」で私は、正義は互いにぶつかり合うことを述べ、正義が多様であること、それはもしかしたら生きている人の数だけ、グループの数だけ、そして時間経過によるその時々の人の数だけ異なる正義が存在しているのかも知れないとも書いた。そして改めて感じることは、その人その人の正義は、時と場面、そしてぶつかった事例によって異なることである。

 話題が正義の意味にずれてしまったので、話を政治に戻そう。ある人が現在世論を沸騰させている安保法案に反対することが正義だと思っているとする。だがその人が必ずしも原発再稼動に反対だとは言えないだろう。現在の老人福祉は手厚すぎる、もっと若者にこそ援助すべきだと思っているかも知れないし、韓国とは融和するが中国とは国交を断絶すべきだと考えているかも知れない。

 そうした渦中に政治は常に存在する。多様さが複雑にからみあって、何を基準にすれば多くの満足が得られるかの選択を政治は常に迫られる。そして決断をも迫られるのである。それはそのまま正義の混乱でもある。どうしたってすべてを満足させることなどできはしない。まさに政治もトリアージ(救急救命の場合などに怪我や症状の程度によって患者の救命に順序をつけること)を要求され迫られているのである。それはどこかで切り捨てることの決断を迫られていることをもでもあるのである。

 これに加えて政治には政治家個人の思惑であるとか、政党としての思惑、更には派閥の思惑などが決断に影響を与えることは避けられない。それは決断の意思が善意にしろ悪意にしろ同じである。また善意であったにしてもそれか国民全体に対する利益なのか、それとも一部の者に対する利益なのかも課題となる。

 そうしたとき、私たちは政治に何を求めたらいいのだろうか。政治に何を求めるべきなのだろうか。現在のシステムでは、私たちに与えられた選択肢は選挙しかない。国の政治に関与する方法には、政治を動かせる国会議員を選挙で選ぶか、はたまた自らが国会議員に立候補して国政に参加するかであろ。

 ただ、自らが国会議員になることは、選挙による一定数の得票という条件が付されるから、昔から言われているような、「カバン(資金)、看板(知名度)、地盤(支持者集団)」がなければ、法的にはともかく事実上実現は難しい。どこかの政党に所属して立候補するか、テレビタレントなどで日夜視聴者に顔を売る以外に、当選することは無理である。つまり、誰にも知られていないその他大勢の一員である「当たり前の普通人」でしかない人にとって、自らが政治家となって国政に参加することは不可能になっている。しかも仮に当選したとしても、力のある大きな政党への所属なくして、一人で政治を変えることなどできないようなシステムに縛られているのである。

 残るは選挙への投票である。選挙というのは、別の人格へ政治を委任することである。選んだ私と選ばれた国会議員とは、異なる正義を持っている。別々の正義が選挙でぶつかるのである。しかも、選挙という委任は、すべてを委ねることなのである。白紙委任になってしまうのである。私たちは、選挙という手段を通じて、選んだ他者が国会議員でいる期間のすべてを通じて、私の意思とは無関係に白紙委任してしまったのである。

 だから白紙委任の背景はトータルとしての信頼なのである。本来は個別的な委任が望ましいのだろうけれど、政治が国会という委任を受けた政治家の意思によって行われる代表制度として機能している以上、個別の委任の思いはどこかへすっ飛んでしまうのである。

 しかも投票した事実を投票者は後になって取り消すことはできない。国会議員としての任期中、白紙委任の状態は継続したまま存続するのである。選んだ政治家が、投票した私の意思とは異なる行動をしたとしても、政治家である期間中私はその意思に反した行動を受忍しなければならないのである。

 ならばどうするか。次の投票でその者に投票しないことである。政治の基本は信頼である。それを国民に対する迎合だと批判されようとも、国民の声が天の声ではなく変な声だと揶揄されようとも、投票した者の意思に反した行動は、許してはならないのである。

 「天下国家のために、国民の意思に反しても行動し選択すべき事柄がある」と仮に政治家がのたもうたとしても、それは間違いである。国民の声に従って行動したことで、政治が国民を不幸にすることがあるかも知れない。それでもそれは国民の意思なのである。「馬鹿な国民が馬鹿な政治家と政治を生んだ」と後年批判されるかも知れない。だからと言って、「我こそが国民を正しい方向へと誘導するのだ」などと、政治家は思ってはいけないのである。

 「正しい方向」そのものを選択するのは決して政治家の独断なのではなく、たとえ衆愚と呼ばれようとも国民の意思だと思うからである。もちろんそのためには「考える国民」が必要なのは言うまでもないが、「考える」ことと「任せる」こととはどこかで対立し、ともすれば「誰かが何とかしてくれる」という安易な方向へと人は流されてしまっているようにも感じている。

 「ちゃんとやるから任せておけ」という言葉と、「黙っていてもきっとなんとかしてくれる」との対立は、思った以上に現代の日本社会に浸透していっているように思えてならない。「なんとかしてくれる」は信頼の裏返してではないはずである。信頼とは、自ら考えたうえで任せることである。そういった意味で私たちは、政治や政治家に対する信頼の意味を、もう一度私たち自身に問い直してみる必要があるのではないだろうか。


                                     2015.9.10    佐々木利夫


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