構成が手軽にできるからなのか、制作費用が安上がりだからなのか、はたまた簡単に視聴率が稼げるからなのか、この頃のテレビはグルメというか料理を主体にした番組が多くなってきているような気がする。主人公はあくまで料理なのだが、番組の進行係や出演者が芸能人などの著名人であることが多く、時に有名料理人などが中心になることもある。

 こうした番組で私が気になっているのは、主人公である料理に対する出席者の評価である。もちろん作った人がその料理を自画自賛するようなことは少ないけれど、けっこうな薀蓄(うんちく)を傾けることである。対象が料理なのだから作る側と食べる側の二種類の登場者が必要である。だが私はこの両者とも気になっているのである。作る人の「料理へのこだわり」、そして味わうというか食べる側の「料理への賞賛」が、いつの場合も気になってしまう。もちろんそれは私が「気になる」だけであって、必ずしも正当な評価になっているという保証のないことは言うまでもない。

 作る側のこだわり、それは「健康」そして「栄養価」などに対する発言である。一ヶ月以上も続く健康管理のための献立を作ろうとしているのではない。たかだか「今晩のおかず」としての一品でしかない料理に、どうしてこんなにも多くの効能なり薀蓄を付け加えなければならないのだろう。

 例えばその料理なり食材に、ビタミンCや鉄分が多くて食べた人の健康に寄与するなどの効能を、どうしていちいち並べ立てなければならないのだろう、ということである。その料理を数ヶ月間毎日食卓に並べるることでその人の健康管理に資するというのならまだしも、作られた料理は少なくとも一過性のはずである。あたかもサプリメントの効能を目の前の料理に求めるかような言い方は、不自然ではないかと私は思ってしまう。

 栄養価などを紹介することが間違いだと言っているのではない。食生活全体を通じて、カロリーであるとか栄養価、調理方法、そして美味しさなどに気を配ることの必要性はよく分かっているつもりである。だが、「この番組で紹介されているこの料理」にそうしたことがどこまで必要かということに対する疑問である。

 恐らく嘘は言っていないのだろう。例えば牛乳を味付けに加えることによって、その料理が美味しくなったり、調理時間が短くなるなどの効用があるかも知れない。そうしたことは料理を作った人が開発した一種のノーハウであろうし、それを番組で紹介することに異を唱えるつもりはさらさらない。また仮に何らかの誤解があって、そうしたノーハウが誤りだったとしても、それでも非難しようとは思わない。

 だが、料理を作りながら「牛乳にはカルシュウムが含まれていて、体にとってもいいんです」みたいな発言をすることは、余計なお世話を超え、蛇足にすらなっていると思うのである。牛乳にカルシュウムが含まれていることを否定はしないけれど、カルシュウムを摂取するためにその料理を食べるのではないと思うからである。しかも、その料理に加えた牛乳の量が、果たして「健康を維持するためにカルシュウムを摂る」という効果を人体に影響を与えるまでの量になっているのだろうかということである。

 そんな発言が私には、その料理を作る側の、いかにも「私はそうした知識を知っているのですよ」、「私はあなたの健康のためを思ってこの料理を作ったのですよ」みたいなお仕着せになっているように感じてしまうのである。まさに「余計なお世話」だと思うのである。

 さて次は食べる側というか、味わう側の意見で気になることである。料理番組、地方の食材や料理などの紹介、一般家庭での日常のおかず探索、高級料理と素人料理がどこまで舌が見分けることができるかなどの目隠し対決などなど、料理を巡る番組には事欠かない。そしてそれらの番組には、当たり前のように芸能人が参加者として登場する。

 私がどちらかというと味覚音痴の部類に属することは、これまでにも書いたことがある(別稿「味覚音痴」、「美味しいってなんだろう」参照)。だから登場した料理に対する芸能人の評価について、とやかく言うほどの資格はない。そのことはよく分かっているつもりである。目の前の料理に出演者が「おいしい」と言っているのならそれはきっとおいしいのだろう。顔をくしゃくしゃにして「絶品」と叫ぶからには、きっと叫ぶほどの味がその料理には秘められているのだろう。立ち上がって「すごい」と絶叫するからには、きっとそれにふさわしい味がしているのだろう。だからそれを「嘘だ」ということなど、私にはできない。

 ところで「私は味音痴」と書いたばかりだけれど、味覚障害に陥っているわけではない。何をもって普通とするかは難しいところだけれど、私だって毎日普通に食事をしている当たり前の人間である。妻の作る食事や時に仲間と一緒するファミレスや居酒屋での料理、そして自分で作る毎日の昼食なども、普通においしく食べている人間である。

 確かに絶叫したり、立ち上がって感動するような味覚の料理に出会ったことはないかも知れない。それでもほとんどの料理を残さずに食べて、その食べることや食べたことに満足している自分がいることだけは間違いがない。多少「それほど美味しくないな」と思うことがあったとしても、「残して捨てる」ほどの場面に遭遇したことはない。

 つい先日の番組である。材料として「冷凍うどん、煮干、長ネギ、しょう油」が登場する。そして料理する人の「手抜き」、「簡単」などの余計なお世話の会話が入る。調理方法を述べるまでもなく、材料を見れば味わいの結果は分るような料理である。

 出来上がった料理を「まずい」とは思わない。テレビを見ている私に味は伝わってこないのだから、味に論評するのは行き過ぎかも知れないけれど、それでも材料からみてどんな味がするかくらいの想像はつくと思うのである。そしてその想像と実際の味との間に、それほど大きな違いがないだろうことも分る(つもりである)。

 ただその料理を口にした芸能人が、「おいしーい」、「腰があってすごーい」、「癖になるー」などを連発したことに驚いたのである。作られた料理が「まずくて食べられたものではないだろう」と思ったからではない。とは言ってもメインの食材が冷凍うどんである。煮干で出汁をとろうが、粉末にして振りかけようが、長ネギをみじん切りにしようが、長いままで使おうが、使った材料からはどうしたって絶叫するほどの美味しさになどなるはずはないと思ったのである。

 こうした絶叫マシンもどきの感嘆詞つき味覚表現は、このうどん料理だけに限らない。すべてと言ってもいいほど、どんな料理番組の出演者(味わう側)にも共通する。だから料理番組などに出演する芸能人などが「おいしい」、「まったり」、「食感が違う」、「やわらかい」などを連発し、しかもその表現をするときに顔をくしゃくしやにしたり、飛び上がったり、絶叫したりする場面をみるにつけ、私は彼らについてついこんな風に思ってしまうのである。

 これしきの料理(けっして軽蔑しているわけではない)に感動して絶叫する芸能人(少なくともテレビの料理に関連した番組に出演している芸能人に限るだろうが)の食生活というのは、きっと毎日が「不味すぎる」ほどの食事・料理の連続なのだろう・・・と。

 こんな風に書きながらも、私について反省する点がないではない。まず第一は私に絶叫するほどの味覚が、身体機能として備わっていないのではないかということである。顔をくしゃくしゃにして「うまいっ」と叫ぶような料理に実際は出会っているにもかかわらず、私はそれに気づかなかったのかも知れないのである。これはとても不幸なことである。私には飛び上がるような味覚を感じる才能が、そもそも備わっていないことを示していることだからである。

 そして第二点。私はそんな素晴らしい料理に、もしかしたらいまだかつて出会う機会に恵まれていなかったのかも知れないということである。私の舌が世界を感じられるほど本物でありデリケートであるにもかかわらず、その舌を満足させるような料理との出会いに恵まれなかったということである。だとすれば、これもまた別の意味で私の不幸なのかも知れない。

 そうは言ってもこれもかつて書いたような気がしているが、こうした不幸は相殺される場面も同時に持っているような気がしている。それは「私の舌がほどほどの能力しかもっていない」ということは、「不味さを感じる機能もほどほどだろう」ということだからである。したがって絶叫するようなすばらしい味も毎日の食事や料理も、「まあまあおいしい」と感じる程度のいい加減な舌でしかないことは、逆に言うとまずい料理でも「それなりけっこうな味だ」と満足できる舌であることをも意味しているだろうからである。それは言ってみるなら、一面「幸せな舌」でもあるような気がする。

                                     2015.6.2    佐々木利夫


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