終戦の日をある種の記念日と見るか、それとも反省の出発点と見るかは、人それぞれだろう。ともあれ1945年8月15日に、第二次世界大戦が日本の敗戦という形で終わりを告げ、昨年8月に満70年目を迎えた。10年とか50年、100年という区切りでなく、「70年」という期間がどんな意味を持っているのだろうかについては、既にここで書いたところだが(別稿「日本人の戦争責任」、「戦争加害者と日本」参照)、「戦争を直接経験した者がまだ生き残っている」という意味での重みはあると思っている。

 ところで70年とは無関係なのだが、今月26、27日に日本の伊勢志摩でG7サミット(主要7カ国首脳会議)が開催される。ロシアを除く日米英仏独伊加の7ヶ国が集まって開催される国際会議である。その折に、アメリカの出席者であるオバマ大統領が、広島の原爆戦没者慰霊碑を訪問することになった。アメリカの大統領としては始めての原爆関連施設への訪問であるとして、世界中がこのニュースを取り上げた。

 それにしても政治というのは煩わしいものである。この米大統領の広島訪問に当たって、原爆投下の謝罪をすべきか否かが大きな話題になっている。人類が行ってきた数多の戦争の中で、原爆が実戦に使われたのは一度きりである。時は第二次世界大戦、投下した国はアメリカ、投下された国は日本、昭和20(1945)年8月8日広島、同8月9日長崎でのことであった。

 僅か一発の原爆で、広島では被曝から2〜4ヶ月以内に9万〜16.6万人が死亡したとされ、長崎でも7.4万人が犠牲になったといわれている。しかも原爆の恐ろしさは、被曝直後の被害数が膨大であるこことに加えて被害は長く続き、戦後70年を経た現在でも続いていること(2008.8.6現在の広島の原爆死没者名簿の記載数によるとその数は25万8310人とされている)である。そして他方、原爆の持つ兵器としての威力は現在に至るも依然として衰えておらず、この兵器を国力を示す力として持とうとする国が後を絶たない。

 人が戦争に勝つために使った手段や武器は様々であったろう。武器にしても、最初は素手だったかも知れないけれど、投石や刃物がそれに加わり、それはやがて多数の兵隊による銃火器や原爆の使用へと変化してきた。その多様さは細菌兵器や化学兵器にまで拡大し、その威力は止まるところを知らないまでになってきている。力によって国が国を支配しようとする試みは、現在でも飽くことなく続いている。

 国連は戦争のルールを決めているという。「是認される戦争」という概念を考えること自体に自己矛盾があるとは思うけれど、基本的には「国家の自衛」が背景にあり、手段としては「最小限人命損失であること、不要な破壊や市民に対する攻撃、過剰な苦痛などの不適切な行動の禁止」などが上げられている。

 だがどう言おうとも、兵器は他者を殺戮するための手段でしかない。関が原における刀による切り合いと、機関銃や大砲やその延長にある原爆などとの間に、兵器としての区別する基準があると私には思えない。ピストルはいいけれど大砲はダメ、大砲はいいけれど原爆にまで行ってしまったらダメだという論理は、殺傷能力の差にその根拠を持たせるのだろうか。小さな悪ならルールの範囲内と認めるが、大きな悪はルール違反だとでもいうのだうろか。

 「程度の差」という問題はいつも私たちを混乱させる。ともすれば「その差」が手段の正当性を示す根拠にされてしまうことがあるからである。確かに原爆は大量殺戮かつ無差別殺戮である。しかし、原爆だけが大量無差別な兵器の範疇に入るわけではない。現在の兵器のほとんどが結果的である場合も含めて大量無差別の効果を有している。そのことは今でも続いているイラクやアフガニスタンや世界中の様々な国で行われている、それを革命と呼ぶかテロと呼ぶか、はたまた内乱もしくはクーデターと名づけるか、私にはその区別すらつかないのだが、多くの殺戮の現実が示している。時には私憤の解決や暴力団の内部抗争にすら無差別性を見ることができる。

 アメリカはこのサミットの機会を利用した大統領の広島訪問で原爆投下の謝罪はしないこと、日本もまたアメリカに謝罪を求めないことで合意したという。アメリカの思惑は、国民の多くが「原爆投下によって第二次世界大戦は終結した。そしてそれはアメリカ軍の戦争犠牲者のみならず日本国民の死者の減少という効果をもたらした」と考えているからだという。つまりそうした世論の思惑を受けて大統領は謝罪をしないのだと言われている。それを政治というのかも知れない。国民の多くが原爆投下を戦争終結に寄与したという意味で是認している以上、多数票の獲得という形で選ばれた大統領が、そうした意見に反する行動の許されないのは当然なのかも知れない。選挙、投票とは、まさしく「政治の出発点そのもの」だからである。

 私もまた、「原爆投下によって戦争は早期に終結した」との効果があったことを認めることにやぶさかではない。戦線の衰退、沖縄戦、本土空襲などなど、日本が敗退に向かっていたことは否定できない。それでも私たちは「本土決戦」、「目指せ一億火の玉だ」とばかり、最後の一人になるまで鬼畜米英と闘うことが日本を守ることだと信じて行動していた。そうした思いの中で、広島長崎への新型爆弾の投下が終戦に直結させたのは御前会議などの様子を伝えた報道などから、事実だとも思っている。

 それでもなお私は、「投下したことの責任」は残ると思うのである。それは「日本も悪かったのだから」という意味での相殺とかお互い様という思いを超え、更にはもう昔のことだからなどの思いで消してしまうことなど許されないと思うからである。

 どんなに劇的な効果が認められたところで、アメリカは原爆を日本に向けて投下したのである。効果の評価と投下したことの責任とを結び付けることはできないと思う。私は、原爆投下だけを切り取ってそのことを許されないのだと言いたいのではない。原爆だけが許されないとし、沖縄戦や日本各地への艦砲射撃や空襲などは、戦争なんだから認められる、もしくは仕方がない行為なのだと言いたいのではない。

 それらを同一のレベルにおいた上で、余りにも巨大で無差別殺戮を目的とした兵器を製造し使用したことを、そしてそうした巨大な殺戮兵器の今後における開発や行使を人類としてやめようと訴えている国の当事者として、自らの過去を「謝罪」という形で世界に示すべきではないかと思うのである。

 広島の原爆戦没者慰霊碑にこんな言葉が刻まれている。「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」。この碑文の「過ち」の主語が不明確だと昔から言われている。「過ちを犯したのは果たして誰だったのか」という素朴な疑問から来るものであった。長い議論の末、主語は「人類全体の誓い」という形で決着したらしいが、そうだとするなら、アメリカは「日本に対する謝罪」、「投下したことへの謝罪」という意味ではなく、「人類全体に対する謝罪」の意味で原爆を製造したこと、そしてそれを投下したことへの罪を認めるべきではないだろうか。

 謝罪はアメリカだけに求めるものではない。日本もまた、真珠湾攻撃を始めアジア諸国に対する加害などなど、謝罪すべきことは余りにも多い。「戦争なんだから仕方がない」という理屈はそれなりの意味を持っていると思う。ただ、「それが戦争なのだ、そうした理不尽をひっくるめて戦争と呼ぶのだ」と言ってしまえるなら、世の中の争いの多くは「仕方がない範囲」に入ってしまうことだろう。

 だが一方でもし「戦争はもう止めよう」という意思を、国の意思として表明しようと思うのなら、自らが戦争の当事者であった過去を「謝罪し」、そして「反省する」こと、そして更に不戦への誓いを「祈り」として世界の各国に届けることは決して間違いではないように思う。それは決して自虐でも、誤解や歴史観の取り違えでもないと思うのである。そうした思いこそが、今ある世界の国民や政治家に求められている大切な役割ではないかと思うからである。


                                     2016.5.20    佐々木利夫


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