今年は戦後70年に当たる。70年という期間が、どこまで節目としての意味を持つのかは疑問ではあるけれど、終戦の年に生まれた子どもが70歳になることでもある。そうするといわゆる「実体験としての戦争の記憶」という意味では、そろそろ限界に近づいている年数でもあるような気がする。

 記憶を10年単位で区切ることにそれほど大きな意味はないだろうけれど、人は過去をある単位で区切ろうとする習性を持っていること自体を否定しようとは思わない。死者に対する一周忌、三回忌などなどや生誕100年であるとか没後50年のコンサートなどなど、ある年数を単位に思い出を区切ろうとするのは私たちの本性なのだろうか。

 そうした意味で考えると、70年はそれなりの意味を持ってくる。このまま10年後の戦後80年になってしまったら、直接にしろ間接にしろ、戦争を皮膚感覚として知る人はほとんどいなくなってしまうだろうからである。

 もちろんここで言う戦争とは、太平洋戦争、大東亜戦争、第二次世界大戦などなど呼び方は様々だろうけれど、日本が経験した直近の戦争を意味している。戦争は世界中で今も続いているのだから、日本の戦争だけを取り上げることが、必ずしも「戦争そのもの」を取り上げることにはならないだろう。それでも、日本がどのように戦争に関わってきたかを知ることは無意味ではない。

 今年も終戦とされる8月15日を中心に、様々な戦争の記録や体験がテレビで放送された。私の生まれた昭和15(1940)年の翌年にこの戦争は始まった。戦争までの経緯は必ずしも一義的ではないだろうし、真珠湾攻撃をもって開戦と決め付けることにも疑問は残る。

 それでもこの戦争は1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃に始まり(別稿「8月15日」、「真珠湾?」「アメリカと原爆投下」など参照)、戦線は中国から遠くニュージーランドまで拡大し、やがて玉砕・撤退の報が続き、昭和21年の沖縄戦(6月)、原爆投下(8月6日広島、9日長崎)を経て1946(昭和21)年8月15日を迎えたことが定番とされている。そうした5年にわたる戦争の映像記録などが近年は多く集まるようになり、アメリカ軍のデータも含めて時にカラーへの変換、静止画の動画化などに加工されて私たちの前に表れる。

 そうした映像を何度も見る機会があった。始めて見る映像も多かったが、これでもか、これでもかというほどにも放送は繰り返された。そしてそうした番組の基本的な構成指針が、「戦争反対」であり「平和への祈念」にあることも理解できた。

 でもこうした番組を見ているうちに、「チョット待てよ」という気持ちが頭をもたげてきたのである。決して「戦争反対」や「平和祈念」という思いに疑問が生じたというのではない。ましてや「戦争賛成」とか「平和祈念反対」などという気持ちなどさらさらない。

 「チョット待てよ」とする思いの背景には、日本が常に被害者としてのみ描かれていたところにあったのである。東京大空襲で煙と炎に逃げまどう人々、沖縄戦でアメリカ軍の火炎放射器に追い立てられたり崖から飛び降りで自決する民間人の姿、原子爆弾で剥けた皮膚を引きずって歩く亡霊のような姿は悲惨を通り越してこの世のものとも思えないほどであった。

 満州からの疎開、シベリア抑留、南方諸島の玉砕などなど、戦闘の記録もまたどれ一つとった所で戦争の悲惨さを伝えて余りある。私は生まれたばかりだったし終戦は6歳だったから、北海道夕張生まれの私に実感としての戦争体験はない。せいぜいが戦後の混乱や食糧難程度の記憶である。それでもこの悲惨さは分る。戦争がどんなにむごい現実だったかを分らないではない。

 だがそうした「悲惨な現実」がいかに事実であったとしても、そのことだけで「被害者日本」の主張がどこまで許されると考えていいだろうか。

 日本には古来から「喧嘩両成敗」と言う言葉がある。戦争を単なる「喧嘩」に対比させてしまっていいかどうかは必ずしも分からない。一方的に攻められ被害を受けるだけの戦争だってないとは言えないだろうからである。それでも少なくともこの戦争が、日本が被害者であるだけの戦争だったとはどうしても思えないのである。

 国民の戦争に対する意識が、政府のコントロールに踊らされたとか、一部の大きな声に圧倒された、場合によっては暴力的な強権力に強要されたという場面がなかったとは言えないだろう。でも心の中心での思いはともあれ、日本人が戦争に賛成した場面も多かったと思うのである。開戦や戦勝の折々に旗振り行列やちょうちん行列が街を賑わしたとも聞いた。

 自発的か、嫌々だったかはともかく、出征者の見送りには地域を上げて万歳を繰り返し、鬼畜米英を倒す使命に武運長久を祈った人は多い。各地に国防婦人会が作られて銃後の守りが高く叫ばれ、国賊・非国民という言葉が行き交った。

 心底そう思った人もいるだろうし、外に出た行動が内心とは裏腹だった人もいるだろう。しかし仮に「仕方なく従った」ことが事実だったとしても、だからといって表出された行動が免責されるわけではない。旗振りの主催者よりは多少小さいかも知れないけれど、首謀者の影に隠れて加わったイジメ行為が免責されることはないだろう。

 新聞もまた背後に軍部による廃刊命令の恐怖があったかも知れないけれど、戦争の反対を唱えることもなく大本営発表の戦勝記事を毎日羅列した。毎日新聞はこの戦争の開戦の朝の新聞に、こんなスクープ記事を掲載したとの記録を最近読んだ。

 横見出しに「東亜攪乱・英米の敵性極る」、大見出しに「断乎駆逐の一途のみ隠忍度あり一億の憤激将に頂点 驀進一路・聖業完遂へ」を掲げ、
 本文に「日米交渉の進行如何に拘らず、帝国不動の大国策たる支那事変の完遂と大東亜共栄圏確立の聖業が、もはや英米の反日適性的策動を東亜の天地から一掃せざる限り到底達成し得ぬ重大段階に進んだことは明白な現実であり・・・」1と書いた。(1941年12月8日朝刊・毎日新聞《東日、大毎》)・出典は「新聞 資本と経営の昭和史」 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩 今西光男著 朝日新聞社発行P195から引用。

 これはまさに国民の士気を煽るものではないだろうか。政府もメディアも国民も、日本中がこぞって戦争を支持したのである。応援したのである。賛成したのである。これは多くの文学者や音楽家、画家、詩人などの作品にも共通するものである。

 もちろん戦争に反対した人たちが皆無だったとは言わない。警察や特高、軍部などに捕らえられ拷問されたり獄死した例も多くあるだろう。それでも日本人の多くは戦争に賛成したのである。徴兵された家族が戦死したり、自らが空襲を受けたり兵士として徴用された結果、提灯をふったときにはこんなひどい目に遭うとは思わなかったと後悔した人が多かったかも知れない。しかしたとえその後悔がどれほど大きかったとしても、戦争に賛成したことを帳消しにしてお釣りだけを残して、そのお釣りを理由に被害者としてのみ存在することの言い訳にはならないと私は思う。

 だから私たちは被害者であると同時に、加害者でもあったのである。それを頬被りして被爆者、被害者であることのみを強調することは、許されないどころか間違いだとすら思うのである。そしてそれは日本人としての間違いであり、戦後70年、100年、数百年を経たとしても「私は銃を持たなかった」として責任逃れをすることなど決して許されないと思うのである。私たちは永劫に相殺など許されることのない戦争の加害者であり続けるのだと思う。そしてそれが私たちに与えられた天刑・原罪ともいうべき宿命でもあると思うのである。

 ただそうした思いから一つの疑問が湧いてくる。天皇の戦争責任である。日本人は天皇を現人神(あらひとがみ)としての地位を与え信じ、戦争の開始、拡大、終了などなどを含めて日本人や敵対国の人々に対する生殺与奪の権限まで与えたのである。天皇の責任について様々な議論があったことは分る。日本という国体を維持するために、天皇を犯罪者とするわけにはいかなかったとの意見も分らないではない。そうした決断や交渉が政治だというのなら、それも理解しよう。

 戦勝国が敗者を裁く戦争裁判というシステムが、どこまで妥当なものかは疑問がある。だが、それでもなお戦争を犯罪として処罰することが許されるとするなら、少なくとも「天皇は戦犯ではあるけれど、○○のために戦犯とはしない」との宣言がどこかで必要だったのではないだろうか。「○○」という理由に対するきちんとした理屈なり議論が必要だったのではないだろうか。

 天皇の戦争責任についてはまだ私の中で未消化のまま残されている。いつの日か改めて取り上げてみたいテーマだと思ってはいるが、これにきちんとした答が出せないうちは、私の中でこの戦争は未処理まま尾を引きずっていくような気がしている。


                                     2015.10.23    佐々木利夫


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日本人の戦争責任