福島第一原発の事故から、間もなく満5年になろうとしている。2011.3.11の原子炉爆発は、日本人にとてつもない衝撃を与え、現在も収拾がつかないまま混乱の最中にある。この事故についてはこれまでに何度もここへ書いたけれど(別稿「原発の安全」、「数万年という時間」など)、恐らく現在でも多くの人の中に混乱を残したままになっていることだろう。それは私も同様である。

 間もなく迎える三月は、その事故から満5年という一種の節目の年になることから、恐らく多くのメディアがこの事件に関する様々な特集を組むことであろう。だからと言って私の中に前回書いた以上の新しい情報が入ってきているわけではない。だがそれにもかかわらずまたしてもここに同じようなテーマで書こうと思い立ったのは、私の中で解決していない疑問がどうして世の中にも同じような疑問として通用しないのかが、どうしても理解できないでいるからである。

 原発事故後、日本中の原発はすべてその稼動を中止した。各地の電力会社は設備の耐震能力の向上や今後予想される地震の震度などを掲げて再稼動の申請中であり、中には再稼動を認められた施設もある。もちろん原発再稼動反対の声は多々ある。中には裁判になり、再稼動中止の仮処分が出された地区もある(ただ、その仮処分はその後の本裁判で取り消されたけれど・・・)。だから世の中には再稼動を承認している人ばかりだけが存在しているとは言わない。ただどうしても反対意見が世論として形成されていないことがどこか歯がゆいのである。どうして再稼動反対が大きなうねりになっていかないのかが疑問なのである。

 私が再稼動に反対である根拠は多々ある。ただ、ここでは放射能問題に限って、二つの場面を考えてみたいと思う。一つは放射能廃棄物の処理についてであり、もう一つは放射能の安全基準についてである。この二つとも前掲エッセイでここへ書いた。しかもその時以上の情報は得られていないので繰り返しになるかも知れないが、私の中ではまだ解決されないままになっているので了解してほしい。

 一つ目の廃棄物について話そう。原子力発電とは原子炉の中で核燃料を燃やし、その熱で発生させた水蒸気でタービンを回して発電するシステムである。だから結果として核燃料を燃やした後に廃棄物が生成されることになる。これがいわゆる核燃料の灰(ゴミ)であり、核燃料廃棄物と呼ばれているものである。これが無害であるなら、特に問題視することはない。だが、このゴミは強烈な放射能を持っているのである。

 放射能はその強度にもよるだろうけれど、人体にとてつもない影響を与えることはすでに知られていることであり、それは広島・長崎を通じて私たち自身が経験しているところである。放射能被曝の影響は、遺伝子の変化を始め即死まで様々な段階がある。もちろん放射能は自然界にも存在しているから、私たちは日常的にも何らかの影響を受けていることは事実である。そうした影響は、私たちが自然界で生存しているという前提を置く限り、避けることできない事実である。

 そうした自然界での影響は、私たちが人類としての数百万年、生物としての数億年をこれまで経験してきたのだから、所与のものとして承認しなければならない。だから避けられないという意味で無害と認定するか諦めるか、もしくは自然界放射能から隔離された生活を選ぶかはこれからの課題になるだろう。ただこれまで私たちは仮に影響があるとしても、それは自然界にもともと存在していたのだし、共存という形で放射能と過ごしてきたのだから、受けている影響もまた自然のものとして受容・許容することで承認してきたといえる。そしてその承認を私たちは「無害」と名づけてきたのである。

 だからもしかしたら自然界に放射能が存在しなかったとしたら、人間の寿命が200歳にも及ぶとの研究結果だって将来発見されるかも知れないのである。ただそこまでの議論は単なる想像・空想に過ぎないので、ここで取り上げることはしない。

 問題としたいのは、放射能の安全とされる基準がきちんと研究され確立されていないことである。確かに国による安全基準は公表されている。だが、それは被爆者が死傷するであろう基準であって、少なくとも遺伝子レベルにおける将来に向けた安全基準になっているとは到底思えないのである。それはそうした判断の根拠が、日本における原爆投下やチェルノブイリで発生した原発事故以後における被害者の研究データに止まっているからである。放射能被害はノーベル賞受賞者であるキュリー婦人ですら知らなかったのであり(前掲「数万年という時間(1)」参照)、少なくとも私が生まれた以後の研究でしかないのではないだろうか。

 政府も自治体も、更には放射能汚の可能性を否定する商品を販売する商社・商店も.そうした安全基準を絶対視する。だが少なくともその基準値は「これまでの研究によれば安全と思われる」程度の範囲に止まるのであり、「絶対安全」であることの保証にはまるでなっていないと思う。たかだか数十年のデータの積み重ねでは、何代にもわたる人類の将来・未来への影響を知ることなど不可能だろう。

 もう一つは、放射能廃棄物の処理方針がまるで示されていないことである。うろ覚えでしかないのだが、核燃料の廃棄物は、利用した核燃料を上回る放射能を発すると聞いたことがある。しかも人体に更に強い影響力を持つ物質に変化しているとも聞いたことがある。少なくとも、放射能という観点からするなら、核燃料は発電に利用してもその影響力が減少することはないのである。例としてふさわしくない知れないが、広島・長崎て投下された原爆は、原爆本体が当初持っていた固有の放射能値をすさまじいまでに増幅させたのであり、核燃料の使用もまたそのことと同義だということである。

 何らかの形で放射能を消したり中和したりすることができるのか、少なくとも私たちはその答えを今のところ見つけていない。にも係わらず原子炉の稼動は、確実に放射能廃棄物を生成していく。燃料として使用すればするほど、その使用前の放射能値を上回る廃棄物が増加していく。数万年とも言われる放射能の影響を持つ廃棄物が、後始末の目処さえつかないままに増加していくのである。地中に埋めて隔離するのが、現状で考えうる最良の方法であると言われている。だが数万年とも言われる放射能の影響期間を私たちは、どこまで安全に隔離することが可能だろうか。

 私たちがこれまでに作り上げてしまった廃棄物を、物理的に消すことはできない。それは地中や海中深く埋めるにしろ、なんとか人類から隔離する形で保管していくしかないだろう。それは私たちに与えられた避けられない宿命である。だがそれとても地元住民の理解や、数万年という人類としてかつて経験したことのない管理手法の困難さの前に、政府も自治体も途方にくれている。ならば、少なくともこれ以上、放射能廃棄物を増やさないことが私たちに求められている最小限の義務なのではないだろうか。

 放射能は手品のように消してしまうことができない以上、過去の発電による核燃料廃物の後始末はどんなに困難でもやり遂げなければならない。そして私たちにできる唯一のことが、たとえ経済的な利害を超えてでも「これ以上の廃棄物を増やしてはならない」ことなのではないだろうか。それは政治だとか経済効果などを超えた、人類そのものに与えられた避けてはいけない「あがない」なのではないだろうか。そしてその時は、今だと思うのである。


                                     2016.1.15    佐々木利夫


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放射能と安全