命には順番があるんだと、いつも書いているような気がする。災害時などに医師や救急隊員が助からない人、助けられる人などを四段階に区分して取り扱うトリアージ、人と動物による命の差、更には同じ人間であっても自分と家族と他人などの距離による命の違いなどなど、一口に命と言っても様々な重さがあることは、現実として私たちは知っている。そして片方に抽象的ではあるけれど、「命は地球よりも重い」とする命題が対峙している。

 いずれにしても、「命が大切」とする思い、それもとりわけ「人間の命」の大切さを、私たちはいやというほど教え込まされてきた。いや教え込まれたのとは違うかもしれない。もしかしたら私たちが勝手に思い込んでいるだけなのかもしれない。そんなことをこの頃ふと感ずるときがある。誰もが信じているかに見える命の大切さが、時に殺人、時に戦争、時に事故などなどで、余りにも軽く扱われているように思えるからである。

 そんなとき私たちは、命の大切さを「どうして大切なのか」という疑問すら抱くことなく、頭から勝手に思い込んでいたような気がしたのである。命が大切であることについて私たちは、その背景や原因を考えることなく、「それはそういうもんなんだ」、「始めからそんな風に決まっていることなんだ」、「神様が決めたことなんだ」と勝手に決め付けていたのではないだろうか。

 例えば「汝殺すなかれ」と神はモーゼに伝えたと聖書にある(旧約聖書、出エジプト記、20章3節以降)。でも、禁じられているのは同胞としての人であって、その中に異教徒や他民族や奴隷などは含まれていないとも言われている。しかも、どうして殺してはいけないのかまでは、神もまた私たちに教えることはない。

 日本の刑法にも「人を殺したるものは死刑・・・」との規定(199条)はある。だが、そこに「殺すな」とは書いていない。殺すとは相手の死に手を下すことであり、それを実行すると罪に問われるとの思想は、恐らく世界に共通していることだろう。だが、どうして殺してはいけないのかを誰にも分るように知らせることは誰もしてくれない。

 そんなことくらい「自分で考えろ」なのか、それとも「考えるな」なのか、ただ「信じろ」なのか、それすらも分らない。人間の歴史は、石器から宇宙飛行や携帯電話の発明へとつながる進化だったかも知れない。だがそれと同じように、他者への殺戮をエスカレートさせていく歴史でもあった。そしてその殺戮は、死刑、内乱、戦争、革命、聖戦、抵抗、反旗、抵抗、反乱などなど呼び方はともかく、他者を力で制圧することを意味していた。

 そしてそうした制圧は現在でも飽くことなく続けられている。人の死は単なる数となり、死者に名前はない。そうした死者の中に仮に無差別殺人が含まれていたところで、殺す側はそのことを考えることすらない。名前のない屍が累々と積み重なっていくだけである。

 そんなとき私はふと、人は人を殺すようにできているのではないか、と思ったのである。人類の進化は前回(別稿「進化・変化する人類」参照)、クロマニヨン人の発祥当たりからで今から約30万年くらい前ではないかと書いた。更に人類の祖先をたどるなら、恐竜時代の末期に出現したネズミに似た弱々しい哺乳類に行き着くとの話も聞いたことがある。

 弱肉強食の地球環境の中で、牙も爪も持たずただ逃げまどうだけの人類の祖先は、恐竜が絶滅するほどにも過酷な環境の変化にもかかわらず生き残ってきた。数千世代、数万世代の歳月を経て、その順応なり対応の変化を進化と呼ぶかそれとも単なる適応と呼ぶかはともかく、私たちは人類として生き残ってきた。そうした私たちに与えられた使命は、ただ一つ「生き残れ」であっただろう。

 もちろんその使命は、絶滅してしまった数多くの種にも同様に課された命題であっただろう。それでも今生き残っている生物が、たまたま絶滅から免れ現在の地球環境に適応できた偶然の結果だということは分る。北極熊の赤ん坊が仮にサハラ砂漠に生まれたとしたなら、その環境で生き残れるはずはない。だが、生まれた時の地球が全球凍結に向かっていた環境だったとするなら、アフリカに生まれた北極熊の赤ん坊はむしろ十分に生き残ることができる。もしかしたら地球は北極熊の天国になっていたかも知れないのである。

 もちろん可能性だけを論じたところで意味がない。地球環境は今のように変化してきたのだから。しかも生き残るために必要な適応は、環境に対してだけではない。生き残るためには、食物を他から獲得しなければならない。植物の多くは、地中の水分や養分、そして太陽光を自身に取り込むことでその術を獲得した。だがそうした植物が獲得した生き残りの術を横取りするような、新たな生物が発生する。草食動物の誕生である。

 そうした横取りによる結果をたんぱく質と呼ぶか筋肉と呼ぶかはともかく、植物を摂取した動物はそれを肉体に変換することで自らを維持する手段とした。やがて進化はその変換技術を更に横取りするような形態を持つ種の発生を生んだ。肉食獣そして雑食性と呼ばれる、肉を摂取して自らの肉体を維持するような形態の生物の発生である。

 そしてそれが現代へと続く。人間はネズミのような哺乳類から猿に似た動物へと変化し、樹上生活から平原の二足歩行へと変化していった。生き残ることの命題は、かくして他者への侵略が避けられないものとなっていく。植物だって地中の養分を侵奪していると言われればそれはそうかもしれないけれど、地中の養分に「命」を感じるような意識は、少なくとも私にはない。

 もちろん植物といえども、自らの勢力範囲を拡大するために他の植物の生長や繁茂を制限するようなことがないとは言えない。そうしたとき、植物にも動物と同じように命があると言えるのなら、それもまた「他の命への侵略」と呼べるかもしれない。それでも私は、多少の違和感を残すかもしれないけれど、ここでは植物の命と動物の命とは別のものだと考えたいと思う。かくして私は身勝手にも、命の差別、命の区別という前提を既に承認してしまっていることになる。

                             「殺し合いの遺伝子(2)」へ続きます。


                                     2016.10.6    佐々木利夫


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殺し合いの遺伝子(1)