生物、特に動物は他者である植物や弱小動物を侵略することで生き延びてきたのではないか、そして更に人は人を殺すようにできているのではないかと、前回ここへ書いた(別稿「殺し合いの遺伝子(1)」参照)。だからと言って侵略される側がどんな場合も侵略されるままになっていたわけではない。反撃するのか、それとも逃げるのか、はたまた見つからないように隠れる道を選ぶのか、それぞれに手段は異なるだろうけれど、生物はあらゆる手立てで自らを守り、そして自らの子孫の生き残る途を探ってきた。

 そうした手法が調和の取れた地球世界を構成することにどこまでうまく寄与できているのかどうか、そこのところを私が必ずしもきちんと分かっているわけではない。それでも、少なくとも今ある世界を形成してきたことだけは事実である。

 そうした生存競争における生命に与えられた命令はたった一つ、「生き残れ」だったと思うのである。ただ、その命令の実現手段は、必ずしも「自らの長寿」、つまり不死でなかったことは明らかである。生物は不死ではなく自らの子孫を残すという、一種の擬似的な不死の形態を選択したのである。それは結果的には「私のように生き残れ」という命令を理解した子孫を増やすことにつながり、それはそのまま同族たる「種」の増加につながることとなった。ただそうは言っても、「生き残れ」の本来の目的は、自らの子孫の生き残りだけを目的としたものだったのでないだろうか。

 つまりは「自らの遺伝子を残すこと」が生物としての使命であり、それが同時に擬制的な意味にしろ不死につながり、種の繁栄へとつながったのではないかということである。

 前回は食物連鎖としての「生き残り」を書いた。ただしかし、食べるだけでは自らの個体としての生存しか維持できないことになる。仮に100年200年を生き延びたとしても、個体としての命が不死でない以上、そこで命が終了してしまうからである。子孫、しかも己れの子孫を残すためには配偶者を見つけて我が子を誕生させなければならない。オスもメスも、地球に生きる種のほとんどは、単独では子孫を作れないような進化の道を選んでしまったからである。

 これをオスの側から見てみると、自分の子孫を残すためには、自分以外のオスが子孫を残すことを排斥する必要がある。なぜなら限られた食料の下で生き残れる個体数には限りがあり、自分以外のオスが子孫を残すということは、自動的に自分の子孫を残せないことにつながってしまうからである。それは必然的に、あるオスが「自分以外のオス」を排斥すると言う、闘争型にならざるを得ないことを意味している。オスがどんな場合も闘争型であるとは限らないだろうけれど、それでも闘争型の遺伝子を持つオスの方が、自らの子孫をそうでないオスよりも残せる可能性が高くなることくらいは誰もが承認できる考えだろう。そうするとその種は世代を重ねるごとに、闘争型のオスの割合が次第に増加していくことになる。

 これと同じような意味で、メスは産まれた子供を守る保護型へと進化し、その数を増していくことになる。このメスの行動もまた、「自らの子孫を残す」という使命のあらわれである。そしてそれは必然的に闘争型のオス、保護型のメスという二極分化の構造へと生物が進化していくことを意味したのではないだろうか。

 こうした進化の中で、どうして同種間での争いが、メスの奪い合いや食糧確保の縄張り争いだけに限定されているのか、つまりどうして命の奪い合いにまで発展しないのか、実は分らないでいる。つまり、どうしてライオンはライオンを狩らないのか、オオカミはどうして自分以外のオオカミを殺して自らの食料とするような行動を選択しないのか、ということである。もしかしたら同種間における殺戮には、どこか遺伝子的な歯止めの信号が隠されているのかもしれない。

 ともあれ生物は肉食する種を生み、他の種を殺戮して自らの生存の糧としたり、己の子孫を増やしたり食料を確保するために縄張りを確保したりなどと、同種間でも相手を排斥するような仕組みの中で生き延びる術を得るようになったのである。つまり、種として他種なり他者を排斥し時に殺戮することは、生物としての本質になってしまったのである。

 そして人間も生物として同じ道筋を辿ってきた。人もまた自らが生き残ること、そして自らの子孫を残すために、他者を排斥しなければならないとする習性を身に着けることになったのである。

 しかも人は他種の殺戮のみならず同種の他者をもその対象に加えることを容認した。動機は昆虫や鳥や魚、そして多くの獣と少しも変わるところはない。食料確保のための縄張りの維持であり、配偶者選択という、たったそれだけのためである。「たった」と言ったけれど、この二つだけで十分なのかもしれない。今の世界の人類の争いを見ても、つまるところ殺戮の目的はこの二つだけで説明がついてしまうように思えるからである。

 男女がそれぞれの配偶者を選ぼうとするとき、身近にわが子や親や兄弟や叔父叔母などなど近縁の異性が多数存在しているにも関わらず、無意識に近縁以外の他人を選ぶ傾向が強いという。それは例えば臭いやフェロモンなどによって、近親相姦の危険をあらかじめ防ぐようなシステムが遺伝的に定められているからだという話を聞いたことがある。その真偽のほどについては知らないけれど、人が人を殺すときにはこうした傾向、つまり近縁の者は殺さないという自制の風潮がどこにも認められないのはどうしたことだろうか。

 親殺し子殺しは昔から存在しているし、カインとアベルのように、兄弟による争いは聖書の時代から存在している。もしかしたら兄弟げんかというのは、他者を排斥して生き残るための基礎的・初歩的な行動として、私たちに宿命付けられているものなのかもしれない。思想の違い、宗教の違いなどによる同族間での殺戮なども当たり前に存在している。人が人を殺すときに、少なくとも「同族・同種」という考え方は頭にないようである。

 ただ少なくとも傾向として言えることがある。「他」である。自らと配偶者、そして自らの子孫以外という意味での「他」である。こうした「他を排斥する」という傾向は、今でも人と人との関係では飽くなく続いている。それは時にナショナリズムと名づけられ、生存競争であるとか民族維持、更には神の意思の違いであり正義への思いであると呼ばれるなど、あたかもそうした排斥が人であることを示す象徴でもあるかのように世界中に蔓延している。

 もちろん命の大切さを信じ、訴え、平和を希求する人たちがいないと言うのではない。人の社会は戦いを重ねる歴史ではあったけれど、同時に戦いを避けて平和を望む人たちの存在を伝える歴史でもあった。たが戦いとその死者は拡大するばかりであり、それを支持する者が多数であった。戦いを否定する声は常に小さく弱く、その声が戦う者に伝わることはなかった。むしろ戦いを継続することで、人は発展し社会は拡大していったのである。戦うことで人は種として生き延び、繁栄してきたのである。

 そうした現実は人間の遺伝子の中に「戦い」、もっとはっきり言うなら「他者への殺戮」が使命として組み込まれていることを示している。なぜならもし仮に、「平和を望む思い」が遺伝子として存在していて、その思いがその者の生き延びるために必要な要素なのだとしたなら、そうした遺伝子が子孫へと伝えられるはずだからである。そうした遺伝子を持つ子孫は生き残るチャンスが多くなるはずであり、代を重ねるごとに必然的に人類の中の多数を占めることになるはずだからである。そしてそして、そうした思いを持つ人類が世界に広がっていくはずだと思うからである。

 だが果たして人は、そうなっているのだろうか。


                                「殺し合いの遺伝子(3)」へ続きます


                                     2016.10.14    佐々木利夫


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殺し合いの遺伝子(2)