前回(別稿「殺し合いの遺伝子(2)」)は、相手と争わず殺戮しないこと(平和を望むこと)が自らの生き残りに有効であるなら、そうした思いが遺伝子として子孫に伝わり、結果として平和を願う人類が世界の多数を占めることになるのではないかと書いた。そしてそれがきっかけでこのテーマに対する思いが広がってしまい、三回目に続くきっかけになった。

 なぜなら、現実世界にそうした遺伝子は承継されず、多くの人類はそうした思いとは全く異なる進化を遂げてしまっているように思えるからである。平和を願う人がこの世に皆無だとは言わない。例外とか希少というほど少ないものでないだろうことも知っている。

 だが、好むか好まないかはともかくとして、戦うことが生き残りの手段であると考えている者が、圧倒的多数を占めている現実を否定はできない。生き残るためには戦いが有効であり、その有効であることの中には相手の殺戮も含まれていると考えている者が、多数を占めているのである。

 何が正義かを決めるのはとても難しいと、これまでに何度も書いてきた。だからきちんと定義できないまま正義を基準とする話を先へ進めてしまうのは、軽率を超えて間違いなのかもしれない。しかし、とりあえずここでは大雑把かもしれないけれど、仮に正義を「善」とし、それに対立する考えを「悪」だと無条件で位置づけてみよう。こうした身勝手な位置づけに反論があるだろうことは十分承知している。なぜなら善悪の彼岸こそが人類の永遠の課題なのかもしれないからである。

 とは言いつつもきわめて凡庸な思いではあるけれど、定義がなくとも善悪は直観で見分けられるとするのもまた人間の思いなのではないだろうか。嘘や盗みや戦争などは悪であり、他人を愛することや平和や優しさなどは善であるとする考えに、多くの人はそれほどの違和感は覚えないだろう。

 そうした中途半端な基準での善悪を、仮に定義なしに承認したとして、果たしてそれだけで善が遺伝子として子孫に伝わっていくだろうかという疑問が湧いてくる。正しいことなんだから伝わっていくはずだという理屈は、少なくとも遺伝子をテーマとする限り説得力はないだろう。「正しいこと」、それだけでは何の腹の足しにもならず、生き延びることや子孫の繁栄にも直接的には結びつかないからである。

 しかし、ある思いが具体的に私や子孫の生き残りにつながるなら話は別である。嘘は悪であり、嘘をつかないことが善であると仮に想定しよう。嘘のない世界が、少なくとも私と私の子孫の生き残りに具体的に有効であるとするなら、「嘘をつかない性質を持つ私」は子孫も含めて、「嘘をつく他人及びその子孫」よりも種として生き残る機会が多くなるはずである。

 もちろん、私が嘘をつかないからと言ったところで、地震や津波や火事などの災害や事故で生き残る道を閉ざされる可能性が消えてしまうわけではない。それは嘘を常習とする人種に対しても同様である。しかし、前提として「嘘をつかない人種」が「嘘をつく人種」よりも生き残りに効果があると定義づけたのであるから、「嘘をつかない人種」が生き延びる機会は当然に多くなるだろう。それはつまり、「嘘をつかない私」の子孫が、どの程度の割合で増加するかはともかく、トータルとしてそうでない人種よりも相対的に多くなっていくことを示している。

 だとするなら、少なくとも「嘘をつかない性質」、もしくは「嘘を見破る能力」を持つ人類は代を重ねるごとに確実に増加して行き、やがては人類の多数を占めることになるのではないだろうか。嘘だけでなく、例えば「争うこと」にしたところで、争わない性質がその者の生き残りに寄与するのであれば、そうした遺伝的形質を持った子孫が淘汰として人類の多数を占めていくことになる。

 もちろん「平和を望む遺伝子を持つ人種」だって、人類の中にはきっといたはずだと私は思う。それにもかかわらず、そうした性質をもつ遺伝子は多数として生き残ることができなかった。なぜか、その検証は比較的簡単なように思える。もしかしたらコンピュータによるシュミレーションを待つまでもなく、私の頭の中でも可能かもしれない。

 片方に戦争で子孫や民族の生き残りと繁栄を図ることが可能であると考える集団を配置し、もう片方に争わないことで自らの子孫を繁栄させることができると考える集団を対峙させる。気候が穏やかで食料もふんだんにあるのなら、互いは接触することなく共存することは可能かもしれない。

 だが、仮にそうした状態にあったとしても、何らかの事情で片方が他方に干渉してくるような状態が起きたとき、果たしてこの両者はどうなるだろう。一方が一方に、奴隷になるように要求したり、相手の金銭や資源を要求したりしたらどうなるだろう。ましてや人口の増加、食料や資源の不足などなどが起きたとしたら・・・。私にはどちらの集団が生き残るか、生き残れるかの結果は、すぐにでも読めそうな気がする。

 つまり「平和を望む性質」を持つ遺伝子は、人類の進化という過程に乗り遅れたということである。もっとはっきり言うなら、争いで解決するという性質こそがその人類の生き残りに役立っているということである。相手を征服(時に殺戮)し、勝者になることで人類は生き残ってきたのであり、そうした性質が私たちの遺伝子に組み込まれたことで今があるということである。

 「平和を望む形質」を持つ種が、人類として生き残れなかったとしても、そのまま絶滅へとつながっていったのか、それは分らない。例えば二足歩行から四足歩行へと姿を代えて別の種として生き残りを図るように進化していったのかもしれないからである。そこのところは、生物学に何の造詣もない私にはまるで分らない。ただ言えることは、いま私たちが人類と呼んでいるホモサピエンスは、こうした戦いの遺伝子を持つことによって生き残ってきたということである。つまりそうした遺伝子を私たちは先祖から引き継ぎ、それを子孫に伝えようとしている生物だということである。

 こんなことを考えていると、果たして進化とは何なのだろうかとの疑問が湧いてくる。少なくとも進化を決めるのは善悪ではないことだけは分ってくる。例え悪と評価されようとも、生き残れるのならそれは進化の後押しになれるのである。私たちは宇宙旅行で月や火星に行くことを進歩だと見ている。国連を作って世界中が協議することが進歩なのだと思っている。携帯電話や立体テレビ、バーチャルリアリティの世界が人類進化の過程を示しているのだと思い込んでいる。

 つまりそれは人類が知的生物の頂点に位置し、それも比類なき知性の所有者だと自認していることでもある。でも果たしてそうなのだろうか。人は果たして進化してきたのだろうか。そしてそうした人類の生き方を進化と呼んでいいのだろうか。それはまた「生き残ること」そのものを進化と呼んでもいいのだろうかという問いに対する疑問でもある。

    なんだかとんでもない迷路に迷い込んでしまったような気がしています。始めは戦うことが
   人類に組み込まれた性質なのではないかと思っただけなのですが、いつの間にか進化の
   問題にまで広がってしまいました。しかも善悪と生き残りを結びつけることで始まった論述が、
   いつのまにか善悪とは無関係であるとの主張にまでつながってしまっています。
    もう少しこのテーマを続けさせてください。「殺し合いの遺伝子(4)」へ続きます。




                                     2016.10.20    佐々木利夫


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殺し合いの遺伝子(3)