「見れる」は「見られる」が正しい。「寝れる」は間違いで、正しくは「寝られる」でなければならない。いわゆる「ら抜き言葉」に対する批判である。これについてはこれまでもエッセイでも何度か取り上げたことがある(別稿「
テレビの字幕スーパー」、「
補正される会話」参照)。書こうとしたきっかけは、いずれもテレビで流れる字幕スーパー(スーパーインポーズ)やテロップなどで表示される文言と、語っている本人の言い回しとが違っていることに気づかされたからであった。普通に会話していて、「ら抜き」に違和感を感ずることはそれほど多くないような気がする。多くはテレビを見ていて、本人の言い方と違う言葉遣いが画面に表示される場合だろう。今回もまた、同じようなきっかけである。
ら抜き言葉はそれほど珍しくなく使われている。例えば上にあげた「見れる」、「寝れる」のほかにも、「食べる」「食べられる」、「出れる」「出られる」、「起きれる」「起きられる」、「始めれる」「始められる」などがあり、日常生活ではそれなりに使われているように思う。
ただ、そこまでのことだったら、これまで考えていた別稿で述べような「ら抜き」への思いと、特に変わるところはなかったと思う。ところが最近こんな例を見て、「ら抜き」はそこまで否定されなければならないものなのだろうか、と疑問に思ったのである。
NHKの朝のニュースで、徳島県のある町の里山の育成に週に何度か従事しているサラリーマンが紹介されていた。熱心に働く姿を見て町の古老が、専業でなくともそれはそれでいいと「土、日しか来れんわな・・・」の感謝の言葉である(2017.7.15)。そしてこの老人の言葉にこんな字幕が流れたのであった。「・・・来られんわな・・・」
「ら抜き」がどこまで徳島で広がっているのか、私には見当もつかない。老人の放ったのが方言か田舎弁かも分らない。ただその言い回しにテレビ局は、あなたの話しは「ら抜き」言葉になっていて誤りです、とばかりに字幕で補正したのである。私はそうした補正にどこか普段と異なる一段高い違和感を覚えたのである。そして、「ら抜き」はどの程度誤りなのだろうかと、今ままで以上に疑問を感じたのである。
正式名称は分らないけれど、恐らくNHKには用語辞典みたいな規則集があり、その中にこうした言い回し、つまり「ら抜き」表現は誤りだから、テロップを流すようなときには「ら入り」に補正すると書いてあるのだろう。だから担当者は、迷うことなく「ら入り」に変換したのだと思う。こうした現象は先の別稿でも述べたように、それほど珍しくなく見られる(「見れる」ではない)から、テレビ局では当たり前に行われているだろうことが分る。
テロップが流れていなければ、おそらく「ら抜き」と気づくことはなかっただろう。それは「ら抜き」に馴れているというよりも、日常会話では言葉遣いにそれほどの注意を払っていないからなのではないかと思う。意味が通じることで会話は成立するのだし、文法的な誤りを吟味しながら話し合ってしているわけではないからである。
そうしたことを取り上げて、「日常とNHKのギャップ」だと言いたいのではない。「ら抜き」の是非はNHK特有の問題ではなく、文化庁など公的にも論議されていることだからである。
ただこうしたテロップに気づくということは、最近こうした現象が多発するようになってきたからなのではないだろうか。日本語だって時々刻々と変化していくことを否定はしない。変わることの中に、日本語が成長し進化していっていることだってあるだろう。また、世の中には正しい日本語(何を基準に正しさを決めるのかはとても難しいと思うけれど)を守ろうという気風があることも理解できないではない。
それでも私が思ったのは、「ら抜き」という言葉の使いかたが、「誤っているのかもしれないけれど国民の間に広がってきている」という思いとは別に、もしかしたら「ら抜き」を問題視することそのものに、問題があるのでないかということであった。
鬼の首でもとったように言うほどのことでもないのだが、実はNHKの職員もまた「ら抜き」を使ったのである(2017.5.13 19:00 ニュース)。暑い東京での熱帯夜をめぐる、スタジオと中継先のアナウンサー同士の会話である。「昨夜は暑かったですね」、中継先が答える「寝れなかったですね・・・」。
中継先が原稿を読み上げていたのではない。たまたま会話の中に普段話している口調が、つい出てしまったのだろう。だからこそ私は、それがその人にとっての「使いやすい表現になっていたのではないか」と感じたのである。
恐らく「ら抜き」の問題提起は、学者か識者かは知らないけれど、「ら抜きは誤り」という主張があり、それに同調した何らかの公的な流れがそれを後押ししたのではないだうか。そう感じた私は、「ら抜きは誤り」とした流れが、果たしてどこまで正しいのか疑問に思えたのである。
標準語と方言を分けた政策に異議を唱えようとするつもりはない。しかし、標準語を上位、方言を下位に位置づけるような考えには私は与しない。それと同様に、「ら抜き」にもきちんとした存在理由があったのではないか、正当に評価すべき立ち位置をちゃんと持っているのではないか、と思うようになってきたのである。
そして間違った使い方だと断じることそのものに反省の余地はないのか、と思うようになってきたのである。そして「ら抜き」が多用される機会が増加してかに見える社会の風潮は、そうした思いが後押しされている証拠なのではないか、更には「ら抜き」はもしかしたら多数派になりつつあるのではないか、との思いが重なってきているのである。
そして少なくとも、「ら抜きを字幕で補正する」という行為は必要なくなってきているのではないか、むしろ余計なお世話になっているのではないか、更に言うなら「ら抜き」は日本語として確固たる立ち位置を固めつつあるのではないかとまで思うようになってきているのである。
2017.7.22
佐々木利夫
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