NHKのFMラジオ番組「きらクラ」は金曜日が本放送で、月曜日に耳するのは再放送らしい。だが、本放送は私のタイムパターンに合っていないらしく、これまで耳にした機会がない。ところが再放送は朝の事務所行きの時間帯にしっかりとはまっている。それで8時過ぎに自宅を出て9時少し前に着くまで、月曜日はいつもこの番組を聴くことにしている。

 「きらクラ」とは、「気楽に聞こうクラシック」くらいの意味なのだろうか。番組構成はいくつかの決まったパターンからできているが、その中に「BGM選手権」というジャンルがある。著名な作家や詩人の作品の一部を司会者が前の週に朗読し、その内容にふさわしいと思われるバックグラウンドミュージック(BGM)をクラシック曲の中から視聴者が選曲し、投稿するものである。そしてその中から何曲かを朗読と共に番組の中で放送するのである。

 ところで今朝の放送は、佐藤春夫の作品であった。佐藤春夫と言っても、私に残る彼の知識はせいぜい「あはれ 秋風よ 情(こころ)あらば伝えてよ・・・」で知られる「秋刀魚の歌」か、数年前に読んだ翻訳書「ぽるとがるぶみ」(別稿「尼僧の恋」参照)くらい貧弱なものである。

 漫然とイヤホーンから流れるままにしていたので、何という作品からの朗読だったのか、放送ではきちんと紹介したのだろうが、残念ながら聞き流してしまった。ただ、かすかな記憶を辿るなら、「セミ」が出てくるので、もしかしたら代表作「田園の憂鬱」の一部なのかもしれない。

 朗読は「セミははかない・・・」で始まった。番組の視聴者が選曲のコメントを添えつつ、その朗読にふさわしいと考えたクラシック曲とともに放送された。四曲ほど続けて放送されたので、バックに流れる曲こそその都度異なるにしても、同じ朗読を四回続けて耳にしたことになる。その度に朗読は「セミははかない・・・」を繰り返していた。

 聞きながらふと、本当にセミの一生は「はかない」のだろうかと、考えたのである。数ある動物の中ではかなげなさを代表しているのは「ウスバカゲロウ」のような気がするけれど、「セミ」もまたはかない一生を代表する生物として知られているだろう。

 その背景には、恐らく数年間を地中で過ごす「幼虫」時代、そして地上に出て羽化して「成虫」となり、一週間ほどで死んでしまうというサイクルが影響しているのかもしれない。それは佐藤春夫のこの文章に限るものではなく、例えば源氏物語でも「セミの抜け殻」を空蝉と呼んで、女のはかなさを伝える小道具として利用していることからも分る(別稿「空蝉(うつせみ)」参照)。

 ところでこうしたセミの一生に対する人々の思いには、どこかに大きな誤解があるのではないだろうか。それは、羽が生えて空を飛んでいるセミだけを「一生の完成品」として位置づけるところにあるような気がしている。つまり、セミの一生の中で夏の青空のもとで「ジイー、ジイー」とけたたましく鳴いて飛び交う一週間だけが生きがいであると断定し、セミの充実期や目的がそこにあるのだと思い込むことからきているような気がしてならない。

 地中での生活を暗くみじめて牢獄のような生活だと断じ、華やかな地上生活を迎えるための仮の姿、つまり予備期間であると私たちは思い込んでいるのではないだろうか。だからと言って、青空の下での自由闊達な生活こそが、セミとして本来の充実した生活なのだと感じる私たちの気持ちを、あながち間違いだとは思わない。だがそのように思い込むのは、セミと私たちとを感情的に同化させてしまっている独断、擬人化のように思えてならない。日の光の届かない深海に暮らす生物は、ことごとくが暗くみじめだと思い込むのは、考えてみれば私たちの人間としての感覚をあらゆる生物に無差別に拡大したとんでもない誤解なのではないだろうか。

 確かに私たちは、飛べる力を持っている鳥や、スピード感あふれる獣などに、一種のあこがれに似た気持ちを抱いてきた。だが考えてみると生物それぞれの能力は、適者生存の結果としてその環境に適合するものとして進化してきた結果である。飛べない生物が飛べる鳥よりも劣っているわけではない。人よりも多くの色を見分けたり、より早く走ることのできる生物が、人類よりも進化しているわけではない。擬人化することが、常に正しい評価につながるとは思えないのである。

 セミにどこまで私たちに似た感情があるのか、そこまでは知らない。痛みを感じ、餌を探し、配偶者を求めて子孫を残すことの中に、何らかの感情じみたものがあるのかもしれない。だからと言ってそうした感情が人類と同じで、「地中での生活は嫌だ、早く地上に脱出したい」という感覚と共通するとは思えないのである。なぜなら、地中での長い生活もまたセミ本来の基本的な生き方だと思うからである。

 セミの様々な種の中に、「素数ゼミ」という考え方があるのを聞いたことがある。「7年」もしくは「11年」を周期として地上で羽化する種があるのだそうである。繁殖を地上で行うセミにとって、互いの繁殖時期がぶつかり合わないようにするための自然の知恵、進化の知恵の結果ではないかと言われている。素数年ごとに地上に出てくるなら、互いの繁殖期が競合する場面が最も少なくなるとの摂理である。

 つまり、セミにとって、地中の生活もまた本来の生活なのである。セミにとって地中で生活することが生物として約束された生態なのであり、地上に出てくることは「繁殖のため」、「配偶者を見つけるため」の止むを得ない手段」なのである。地上は目的なのではなく、種を残すための一つの手段なのである。その地上生活をセミ本来の目的であるとか、そのために長い地中生活に耐えてきたのだと解するのは、見えない地中期間をあえて誤解した人間の錯覚なのではないだろうか。


                                     2017.8.2        佐々木利夫


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