一人の事務所、そしてそれほど仕事熱心でない私にとって、昼間の時間の過ごし方の中でテレビの占める割合はけっこう高い。ただ、コマーシャルが余りにも身勝手過ぎたり、ニュースがキャスターや芸能人個人としての思惑に引っ張られ過ぎているように感じたりするものだから、民放よりもNHKに傾くことが多い。

 ただNHKも最近はコマーシャルと言うか番組紹介というか、宣伝が多くなってきて、見る気がしなくなることも増えてきている。その点、NHKEテレ(かつての教育テレビ)は、比較的児童向けが多くコマーシャルも少ない。しかもそれなり興味を引く番組もあって時々お世話になっている。

 そんな中にタイトルとして掲げた「ジャックと豆の木」という幼児向けの番組があった。ある男性タレントが、独演で物語を演じるものであった。

 物語そのものは単純である。ストーリーは大きくは二つに分けられ、前段は生活に困った母子家庭のジャックが、母親から頼まれ農耕に必要な牛を売って生活の足しにするため市場へ出かけるところから始まる。だがジャックは商人に騙され、豆数粒とその牛を交換してしまう。後段は、その豆が一夜にして天まで届くほど成長し、その豆の木を登ったジャックは、天上界に住む鬼を退治して宝を得、母と幸せな人生を送る、というものである。

 この物語についてはかつて書いたことがある(別稿「ジャックと豆の木」参照)。童話そのものについては別に「童話・寓話の・・・ん?」と別のジャンルを設けて様々書いてきた。つまるところは「童話の中にも筋書きが変なものがある」を中心にするものであった。だが、このテレビで見たジャックと豆の木の物語には、宝物を鬼から奪うという点では桃太郎と同じような違和感があるけれど(別稿「桃太郎」参照)、別の感想も抱いてしまったのである。

 それはジャックの行動がどこか人間的であることに、納得とは違うけれど、「そうだ、そうだ」との共感を抱いてしまったのである。そしてそれは、人間のどうしょうもない欲望の連鎖を、この物語の中に見てしまったからでもあった。

 物語の後半、ジャックは天まで延びた豆の木を登りだす。ここには何の欲望もない。恐らく、少年の誰もが抱くであろう純粋な好奇心がそうさせたものだと思う。

 欲望のストーリーは、ジャックが天上界の鬼の家についたところから始まる。物陰から見ていたジャックの前で、鬼は金貨の詰まった袋をいくつも持ち出し、それを数えているうちにうとうと眠りだす。そのときジャックの心に、盗みの心が芽生えるのである。

 正義のためなら自力執行を認めても良いとは必ずしも思わないけれど、その正義であることの背景もこの物語は示していない。目の前の金貨は鬼のものである。盗んできたものか、何らかの不当な方法で得た利益だとの前提は少しも語られていない。だから、金貨の占有権はもとより所有権も鬼のものである。盗品だとしたところで、勝手に取り戻して持ち主に返還してやろうとの思いが正当だとは思わない。それでもそうなら少しはジャックの盗みに納得できる要素がないわけではない。でもこの物語にはそうした前提が少しも語られていない。「鬼の持っている物は、是非を問うことなくすべて不当に得たものである」との前提があるのならばともかく、少なくとも物語は金貨は鬼の所有物として進行して行く。

 それはジャックの最初の盗みが金貨一袋だけであったことからも分る。もしジャックが正義の味方として、盗品を正当な持ち主に返すことを目指すなら、恐らく一袋だけの回収で満足することなどなかっただろうからである。

 鬼の昼寝に乗じて、ジャックは無事金貨一袋の奪取に成功する。盗まれたことに鬼も気づいていないようである。かくして金貨を持ち帰ったジャックは、そこで突然「もしかしたら正義の味方なのかもしれない」との予想を裏切ることになる。その金貨を母との生活費として使ってしったからである。かくしてジャックは「もしかしたら成立したかも知れない正義の味方」という可能性をかなぐり捨て、単なる「本物の盗人」に成り下がってしまったのである。

 物語は更に悪化する。金貨を使い果たしてしまったジャックは、もう一度鬼の家へと向かうのである。労なくして(鬼に見つかる危険性はあるものの)金貨を得たことに味を占めたジャックは、今度は金貨ではなく「金の卵を生むニワトリ」を鬼から奪うのである。なぜか、それははっきりしている。袋に入った金貨は使い果たすとなくなってしまうのに対し、金の卵を生むニワトリは継続して金貨を産み、生活を安定的に保証してくれるからである。

 ニワトリを盗んだことで生活は安定したはずである。得られた報酬が労働の対価か盗みによるものかはともかく、これでジャックと母親との生活は、毎日のように生んでくれる金の卵のおかげで安定したはずである。ならばジャックはそれで満足したか。することはなかった。彼は三度、豆の木を登って鬼の家へと向かうのである。

 今度の動機はなんだろう。最早、生活が苦しいためではない。それを贅沢への欲求と言ってしまっていいかどうか分らないけれど、欲望が増幅し毎日を当たり前に暮らすだけの要求を超えるなんらかの欲望が、ジャックの心に芽生えてきたきたということだろう。

 今度の盗品は、「自ら音楽を奏でる竪琴」である。ジャックは、音楽のあるゆりとある生活を望んだのだろうか。そしてその盗みを鬼に見つかり、追われて豆の木を駆け下りる。そこでジャックは、あろうことか豆の木を伝って追いかけてくる鬼を、豆の木を根本から切り倒すことで墜落死させてしまうのである。鬼は鬼であって人ではないのかもしれない。だからこの行為を「人殺し」と呼ぶのは誤りかもしれない。それでもその誤解をあえて訂正することなく、私はこの意図的に墜落させた行為を「殺人」と呼びたいと思う。

 ジャックは三度の盗みを重ねた上に、とうとうその盗品の所有者を殺してしまうのである。童話の結末はどれも似たようなものである。この物語も、「・・・それからお母さんとジャックは幸せに暮らしましたとさ・・・」である。どうしてこれが幸せな結末になるのだろうか、どこが「めでたしめでたし」なのだろうか。

 この物語は、ジャックという無垢とも、純粋とも、場合によっては騙されて牛と豆を交換してしまうような愚鈍とも思える少年が、際限のない欲望にエスカレートして殺人まで犯してしまうストーリーを描いたものなのである。そしてそれは単なる寓話であることを超えて、私たちを含む「人間の持つ欲望」の際限のない増幅を示唆しているのである。人の欲望は止まらないのである。止まるところを知らないのである。それが当たり前の人間の姿であることを、この物語はこれでもか、これでもかと嫌になるほど示しているのである。


                                     2018.2.3        佐々木利夫

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再びジャックと豆の木