(別稿「停電40時間初体験」及び「同2」の続編です。)

 今回の平成30年北海道胆振東部地震(2018.9.6、午前3時08分、震源地厚真町、M6.7、震度7)による停電は、これを書いている今でも100%復旧しているわけではない。また、過去の自然災害で起きた停電だって、数日間もしくは数ヶ月に亘って復旧しなかった地域も多数存在していることだろう。だから、私の経験した40時間などたいしたことではないと言われれば、それまでのことである。

 それでも先行きの見えない待つことへの不安というのは、客観的な時間経過よりもずっとずっと長く感じられるものである。政府を含めた関係機関から、完全な復旧には一週間以上かかると宣言されている中での復旧待ちというのは、一時間どころか一分一分がとてつもなく長く感じられるものであった。

 停電は戦後の耐乏生活が身に沁みている私にとって、何度も経験した出来事である。暗闇でろうそくを灯した経験は、幼い時期も含めると数え切れないほどあったような気がする。それでもそのほとんどが数十分から数時間で復旧したような気がする。ひたすらに明かりが点くのを待っている沈黙の中で、あのパッと電気が灯るという感激には忘れがたいものがある。

 地震からあたふたと過ごす数時間、やがて少しずつ外が白み始め、それにつれて室内にも外の明るさが届くようになってくる。どこで印刷したのか、地震情報を満載した新聞が配達された。ラジオ以外の始めての情報である。朝日新聞も道内に自家発電装置付きの印刷設備を持っているのだろうか。
 それでもともかく明るくなっていくということは、どこか気分が落ち着くものである。妻による始めての鍋による飯炊きへの挑戦が始まった。どんな結末になろうとも、生米を食うよりはましだろう。停電から数時間、庫内にまだ冷たさは残っているけれど、とにかく冷蔵庫を空にする算段が急務である。

 思ったよりうまく飯は炊きあがった。妻の得意げな顔つきを冷やかしつつ、どうやら朝飯にありつくことができた。ただし洗濯や入浴は、まだ考えるまでもない。

 隣家の娘が時折インターネットやSNSでの情報をもってくる。スーパーやコンビニなどでは、冷蔵庫が使えなくなったことで食品の処分に大童であり、かつ早くも客が食品、水、電池などを買うために大勢が行列を作って開店を待っているようである。そういえば、外は自家用車が普段よりも多く動いているような気がする。

 一方、隣に住む19歳の孫娘の一番の関心事は、携帯電話の充電にあるようである。なんでも乾電池を利用した充電装置が市販されているようで、それを買うために早々と近くの大型スーパーへ出かけたらしい。ところが、既に売り切れだったらしくしょげている。携帯なしの生活など、考えられないのが現代人なのだろう。
 少し前に読んだ本に、「わらじを履いて天国へ行くか、ハイヒールをはいて地獄へ行くかを選ばせたら、女性はすべて地獄を選ぶだろう」と書いてあったのをふと思い出す。今はまさに携帯がそれに取って代わるものになっているのだろう。

 やがて、札幌市内でも停電が復旧しはじめたとの情報が携帯に入ってきたらしい。とは言え、「これまでの震度より大きな本震が間もなく起きるとの発表が、自衛隊からあった」など、ラジオでも発表していない情報が飛び交っているらしく、その真偽は分らない。とにかくSNSではフェイクニュースも含めで雑多な情報が飛び交っているようである。

 とにかくラジオだけが便りである。トイレ以外に歩くような用事はない。テレビは真っ暗、いつも聴こえてくる踏切の遮断機の信号音もしない。無音というほどの静寂ではないものの、建物の周りは静かである。情報が少ないのだろう、ラジオも同じ内容をくり返すだけである。それでも昼頃になって、休止している火力発電所の再稼動にとりかかったので、準備の出来次第、部分的に送電を開始するとの放送が入る。

 それでも我が家が点かない以上、停電の回復とはとりあえず無縁である。やがて夕闇が迫ってくる。近くのいくつもあるマンション群の窓を眺めても、停電の復旧が近づいてきているような気配は感じられない。地震初日の午後6時、空はまだ薄暮を残してはいるけれど、室内は暗くなってくる。することはない。暗くなると調理も難しくなるし、食事の色も形も分らず味すらどこかへ飛んでしまう。早めの夕食にする。

 普段より早い夕飯ということは、それだけ夜の時間が長くなることを意味している。何もすることはない。寝る以外にとりたててやるべきことはなく、ラジオだってそれほど劇的な情報を伝えてくるようには思えないので、眠らないで聞くまでのことはない。ままよとばかり、まだ多少は冷たさが残っているビールを片手に夕飯を終わらせ、寝ることにする。

 ベッドに入ったところで、真っ暗な中では読書もままならず、ラジオも朝から似たような情報を流し続けているだけで、目当たらしい知らせは入ってこない。娘から、停電中は復旧したときに通電火災の心配があるのでブレーカーは落としておいたほうがいいとの助言があり、ラジオも同じようなことを伝えていたのでそれに従うこととした。

 これで、仮に夜中に停電が復旧しても、ブレーカーを上げて試してみるまでは、その事実を確かめることはできないことになった。試すには踏み台に乗ってブレーカーを上げるという動作が必要なので、真っ暗闇では心許なく確認は明朝まで我慢である。

 二日目の夜が明けた。ラジオは、全道の約4割の電力が復旧した、5割近くにまで停電は復旧したなどと伝えているが、少なくとも我が家には無縁の情報である。中央区は戻った、西区も琴似は直ったらしいとの情報が入り、孫娘は充電のために友人宅へと出かけたらしい。だが、そのうちに、我が家の所在する西区発寒地域を通り越して、隣の手稲区が先に通電したらしいとの話まで入っていくる。それも噂だけで、少なくとも我が家は消えたままである。二日目の夜が近づいてきた。

 近隣のマンションの窓からも、停電復旧の気配は見られない。ローソクと携帯ライトで昨日に続く晩飯を食うことにする。今晩もグラス片手の食事だが、暗闇は食事の味さえもなくしてしまう。これだけ電気に依存した生活になっていることに、どこか我々の生活が偏り過ぎているのではないかと、ふと感じる。そしてその偏りは間違った方向を向いているのではないかと、思えたりもする。

 基地局の非常電源が切れてきて、携帯電話がつながりにくくなっている地域があるとの情報も伝わってくる。手術の中断や、人工透析のための患者を病院相互で移送させる話しもある。何から何まで、電気・電気の生活である。ラジオだって乾電池という電気生活の一つである。どこか間違っているのではないか、そんな気のする長い停電である。

 ローソクでの夜食の真っ最中の午後7時過ぎ、隣家の娘が「点いた」と叫んで飛び込んできた。すぐさまブレーカーを引き上げてくれたらしい。とたんに室内が真昼よりも明るくなった。エレベーターは、安全点検が済むまで動かせないらしいが、とにかく室内にいる限りではテレビも映るし冷蔵庫も動き出した。日常が戻ってきた一瞬であった。

 そして「全生活を電気に頼っているような社会は間違いではないか」などとの哲学的な思いはすぐにどこかへすっ飛んでしまい、当たり前の日常を当たり前に感じている私がそこにいた。当たり前にすっぽり浸かり、その当たり前に馴れすぎてしまっている私が、いつものようにそこにいた。

 三日目、地下鉄が復旧したとの情報で、妻と娘と3人で琴似にある事務所へ出かけた。室内は小さなビンが一本倒れていたくらいで、ほとんど無傷の状態だった。停電騒ぎを知らなければ、地震があったことすら気づかなかっただろうほどの、いつも通りの部屋がそこにあった。ただJRの復旧はいまのところ見通しが立たないようである(9.9現在。9.12には間引きながら動き出した)。日常が戻ってきつつある。人もまた当たり前の日常にあっさりと流され、それに何の矛盾も感じない当たり前の思いへと埋没していく。


                                     2018.9.14        佐々木利夫


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停電40時間初体験3