二週続けて桃太郎と武器の関係について書いた(別稿「桃太郎〜1桃太郎〜2」参照)。新聞投稿に抱いた私のへそ曲がりを綴ったものだが、どうしてこうした「言葉だけの正義」みたいな議論が、いつの時代も世の中から消えることがないのか気になった。

 つまり言ってることは正論なのだが、それがとても実現不可能な場合、それをそもそも正論と言えるのかとの疑問であった。

 たとえば、「世界中の人が平和を望むことで世界平和は実現する」と主張したとしよう。言ってることは正しく、非の打ち所のない考えだと思う。しかしそれは、「世界中の人が平和を望むこと」が前提になっている。そんな前提が果たしてどこまで実現可能なのか、そしてその「世界中の人の望む平和」というものが、果たしてどこまで同じ概念としてそれぞれの個々人に共通しているのかが疑問になってきたからである。

 ある人の思う平和が「私自身の家族の平和」に限定されているとするなら、私以外の他者の平和はそのとたんに平和の範囲から放逐されてしまうことになる。それは別に「私の家族」の範囲という概念のみに限定しなくたっていい。「私の民族」、「私の国」、「私の住む地球の人々」、「動物も人間も互いに幸せな平和な地球」などなど・・・、考えていくと平和の範囲は際限がないほど広狭自在になる。

 そして平和の内容も、「飢餓でないこと」、「病気にならないこと」、「砲弾の音の聞こえない生活」、「教育を受けられる環境」、「希望する仕事につける社会」、「車が欲しい、自宅が欲しい」、「せめて年に一度の家族旅行」、「人種差別のない社会」などなど、恐らく人の数だけ多様になってしまう。

 私はそれを「多様」の一言で片付けるのは、あまりにも無責任ではないかと思う。それともそうした「多様」を認めた上で、その「多様をすべて実現すること」が平和なのだろうか。だとするなら、平和というのは果たしてこの世に存在するのだろうか。それとも平和とは、「すべて実現する・させること」ではなく、どこか中途で、折衷的に妥協することで足りるものなのだろうか。

 こうした疑問は、必ずしも平和に限るものではない。交通事故のない社会だって、「運転する人がきちんと交通ルールを守る」ことを呼びかけることの意味と同じである。一人の例外もなくルールを守ることが可能であろうか。守れるのだろうか。守ることだけで交通事故は解決するだろうか。

 恐らく交通ルールがきちん守られることはないだろう。意図的に守らない、うっかり、居眠り、病気、車の故障などなど、交通事故の要因には様々なものがあるからである。仮にそれらすべてをルールブックに書き、運転者にそのすべてを記憶することを要求したとしても、その実現は不可能だからである。

 どんな不都合にも、「こうしよう」、「こうすればその不都合をなくすることができる」との宣言は、様々に存在する。そしてそうした宣言は、結局「こうするためにはどうすべきか」という具体的手段なり方策にぶつかったとたん、挫折してしまうのではないだろうか。

 だからと言って提言なり宣言が無意味だというのではない。私にはその提言なりが、「あたかも答えそのもの」であるかのように錯覚してしまっていることに違和感を覚えるのである。会社が不況で倒産しそうだというときに、「何とかせい」と社長が怒鳴ることだけが答ではないように、「利潤をあげれば解決します」との提言もまた何の答にもなっていないことを言いたいのである。

 「誰もが平和を望むことで社会は平和になる」が答なのではなく、そのために何をどうするかの実現可能な提言があって、平和への道筋が見えてくるのではないかと思うからである。「社会を変えていこう」、「皆で考えよう」、「人々の関心を高めていく必要がある」、「国民意識の変革が必要である」などなど、メディアを中心に私たちは多くの人たちの意見を聞く機会がある。

 それらの多くが言うだけで、その「提言が答になる」と発信する側も受け取る側も錯覚してしまっている。そしてそのためにはどうすればいいのかの具体策を示さない。そうした具体策を欠いた、言いっぱなしの抽象論に止まったままの提言が、今の世の中には溢れている。

 私はそうした提言には、共鳴が必要なのではないかと思っている。「共鳴の得られる提言」、それが現代の提言には欠けているように思えてならない。一つの響きが、他の楽器にも同じ音をつないでいく、それが共鳴である。共鳴と共感とはどこが違うのか、必ずしも私は理解しているわけではない。

 それでも、共鳴することのない提言は、結局不協和音として雑音の中に消滅してしまうしかないように思える。人の心を動かすのは、正論ではなくて、共鳴する思い、共鳴を呼ぶ思いなのではないかと私は考えている。共鳴できれば世界の平和は必ず実現するだろう。

 ただ問題がないわけではない。共鳴は共鳴させる他者が自己と均質でなければならないと思うからである。共鳴とは、均質の場合にのみ成立する概念なのかもしれないということである。僅かでも不純物が入ると、共鳴しなくなってしまうように思えるからである。

 人間は十人十色、百人百色である。外見は顔があって手足があってなど、人は他の人類と似てはいるけれど、その類似は犬猫との類似とそれほどの違いがあるわけではない。そして人が猫を理解できないように、ましてや同じように目もあり口もある魚やゴキブリとも交流できないように、人間同士だって均質だとは言えない。

 現代は多様であることを承認もしくは推奨する社会である。そして多様とは均質であることと真っ向から対立する概念である。多様性の承認、それはまた均質を否定し排除する概念でもある。

 だとすれば、人は他者と共鳴できないのかもしれない。そもそも人類は、共鳴できないことを前提に人間であることを許されている生物なのかもしれない。もし人類が共鳴できないことを前提として存立が認められているのだとするなら、私たちは多様であることの中に、未来も絶滅も存在ものすべてを押し込めてしまっているのかもしれない。

 悲しいけれど、それが人間なのだと、ふと感じることがある。一億年近くを生き延びてきた恐竜も、結局は絶滅した。たかが数十万年、数百万年の歴史でしかない人類が、生物として一千万年、更には一億年もの時間を考えることなど、生物の歴史から見るなら不可能であり、かつ傲慢なのかもしれない。

 そうした一過性の時間の流れの中で私たちは、たかだか人生一生100年を単位とした寿命という時間の区切りを基本として、我が身、社会、世界、そして人類という存在を理解していかなければならないのかもしれない。


                               2019.4.23        佐々木利夫


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共鳴してもらえない