介護を巡るニュースや報道には、どんな場合もその背景に「やさしさ」や「同情」がある。優しくすることこそが介護の基本にあるとの姿勢が常にあり、そこから外れた行為は批判され、時に非難される。

 私たちが目にする介護は、多くの場合作られ編集された映像情報である。それが事件やドキュメントであれ、はたまた放送大学ような講義などであっても同様である。私たち自身が当事者になるのでない限り、介護に直接触れる機会は、ほとんどの場合間接的だからである。

 言いたいのは、介護には常に親切とか愛情とか優しさ、更にはいたわりであるとか誠実さなどと言った正義に分類されるようなある種の要求が、密接不離なものとしてあたかも背後霊のようについて周ることである。

 そうした背後霊的な思考を、批判しようとか間違いだと言いたいのではない。寝たきりの老人に、親切に介護者が声かけをしたり、トイレや入浴の介助、食事の補助をしている姿は、見ていても落ち着くしゆったりとした気持ちを私たちに与えてくれる。

 かたや、老々介護などで介護する側が相手の死を願うような場面などに出会うと、とても悲しくなる。だから「やさしさ」を背景とした行動の様々を、決して否定しようとは思わない。むしろ望ましいものとして、もろ手を挙げて賛成したいとさえ思う。

 実はタイトルに掲げたようなテーマを思いついたのは、BSの放送大学という番組の中で介護を扱った講座を見たからである。その講座の中で、「尾道方式」と呼ばれるシステムが紹介されていた。

 別に尾道方式がおかしいとか変だと言いたいのでもない。むしろ日本中にその仕組みが喧伝されてもいいと思えるほどにも素晴らしいシステムだと思ってもいる。

 講座で紹介された具体的な構成内容であるとかシステムは忘れてしまっているのだが、このシステムを紹介しているネットの記事を見つけた。こんな方法である。

 目的は「ケアにかかわる全員が患者さんの情報を確認しながら行う作戦会議」である。そこでは「・・・午後一時からの会議に合わせ、・・・医師と看護師が三名ずつに、ケアマネージャー、薬剤師、ヘルパー、医療機器販売者、患者の家族など11名がテーブルを囲む」例が紹介されていた。

 むろん患者に関する資料が事前に準備され、それを基に会議が進められていくのは当然である。ただ、私が見た放送大学の講義では、会議には民生委員などもっと多人数が集まっていたような気がする。患者の症例などによって、参集するメンバーなどが増減するのかもしれない。

 こうした方式に不満はない。むしろ患者にとって望ましいスタイルだと言ってもいいだろう。にもかかわらず、こうした会議のやり方に、私の曲がったへそが反応してしまったのである。

 それは、こうしたシステムに対する費用は誰が負担するのか、そしてそうした方式を、いつまで続けることが可能かなどについての具体的な説明が一つもなされていないことにあった。もちろんこのような会議がどの程度の規模や頻度で開催されているのか、私にはまるで知識がない。

 ただ私の入院した総合病院での経験(別稿本年4月、「入院、そして手術」以降参照)によれば、「患者の退院と退院後のケア」という事象は、ほぼ毎日のように繰り返されていた。

 つまり、患者の退院とその後のケアの問題は、ごく日常的にしかも当たり前に発生しているのである。もちろん退院する患者は常に個々人である。病気も違えば治療経過も違うだろうし、年齢も家族も経済も自宅の環境もそれぞれであろう。それはつまり、今後のケアは患者一人一人に寄り添った、それぞれ異なる対応が必要であることを意味し、それに資するために会議が開かれるのである。

 だからこそ、関係者による個々の患者に対応するための会議が必要になるのだろう。マニュアルては解決できない退院後の様々を、ケアにたずさわる多くの人と情報を共有するため、会議が必要になるのだろう。

 ここまではいい。望ましい方法だとさえ言ってもいいだろう。だが十数人を集めたカンファレンスと言うか会議の費用は、一体だれがどんな方法で負担するのだろうか。少なくとも患者本人と家族を除いて、参集するスタッフは、それなりの資格を有する職業人である。もしかしたら、家族といえども患者本人を除くならスタッフと同じ立場にいると言ってもいいような気がする。

 医師と看護師では報酬が違うだろうし、スタッフそれぞれも臨床心理士やケアマネや時に参加する民生委員などの報酬も異なることだろう。

 それでもそれぞれの参加者には、相応の報酬が必要である。特定の患者に対する会議のために、そのスタッフは日常の勤務を変更しなければならない。もちろんその会議も日常の勤務の一形態として位置づけられているのかもしれない。

 それでもそのスタッフの給料は、その患者のために必要な支出として、誰かが負担しなければならない。どんな支出があるかは様々だろうけれど、ある特定の日時に関係するスタッフが特定の場所へ一同に会するのである。

 日当、交通費、旅費、報酬、場合によっては残業手当などが必要になるし、そのほかに参集するスタッフの日時調整のための参加者以外の担当者が必要になる場合もあるだろう。資料作りや資料の作成費用だって必要になるし、会場だって照明や机や椅子などの設備や場合によってはマイクなどの設置も必要になるから、無料ではあるまい。

 そうした諸々の費用は、一体だれが負担するのだろうか。もちろん医療保険制度や介護保険などの制度のあることくらいは知っている。

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  ここまで書いたのだから、これから書くことも想像がつくだろうとは思う。それを知りつつ、まだ書き足りない気持ちが私の中に残っている。後半は「介護とチーム(2)」へ続けます。


                        2020.7.22        佐々木利夫


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