それが体の異常を知らせる一種のサインだったんだと、当然気付くべきだった。昨年(2019年)の10月ころから、通勤などで体を動かすと時に胸の苦しさが募ってくることに気付くようになった。それほど大げさな運動ではないにもかかわらず、しばらくすると胸が苦しくなる。そしてそれが静まるまでに時間がかかるようになってきたのである。

 ささいな動きである。たとえば夜中にトイレに行くとする。足首が痛いので、杖突きながらのゆっくりと片道2分ほどの歩きである。小用を済ませて布団に戻る。そこまでは特に異常はない。ところが、すぐに寝付けないのである。胸の動悸が激しくなり、深呼吸でもしない限り苦しさは落ち着いてくれない状態が続く。

 運動と言うほどの動きではない。せいぜい寝返りに毛の生えた程度の軽い動きである。にもかかわらず苦しさは止まってくれない。夜中ではあるが、時々隣室にある我が書斎の机まで移動し、定期的に測定している血圧計に手を延ばす。

 なんと、上の値が低いときでも170台、高いときは200を超えているではないか。10数分から20分ほどで150台くらいまで落ち着くのだが、200という数値はどうしたって異状である。血圧計は自宅に置いてあるので、通勤時に同じような状況になったとしてもその場での測定はできない。しかし、こんな症状は事務所から退出する途中にも出るようになってきた。事務所から数分の距離に西区役所があり、そこから一時間に2本ほどJR琴似駅行きのバスが出ている。時間を見計らいそのバスとJRを利用するのが日課になっている。帰宅時刻は午後6時前後なので、区役所はまだ開いている。

 少し早めに事務所を出て、区役所一階の待合室の椅子でしばしの小休止をとってからバスを待つのがいつものパターンになっている。

 そして元旦になった。孫4人を交えた恒例の正月行事である。酒を飲みすぎると胸の痛みが起きるように感じたので、その日の飲酒は少し控えた。やがて皆が帰り、しばらくして夜中のトイレと同様な発作が起きた。救急車を呼ぶほどではないと思うが、こんなに頻繁に発作が起きるようでは医者に診てもらう必要があるだろう。

 11月と12月に、かかりつけの脳神経外科の医者にこれまでの状況を説明したことがある。しかし、「服薬中のシロスタゾールが脈拍を低下させているのが原因ではないか。少し薬の量を減らして様子を見ましょう」との返事で、なんとも心許ない。

 九月に脳梗塞で入院した病院(別稿「とうとう三回目〜1」参照)で1月末に眼科の診察を受けることになっていた。その病院は飛び込みの外来は受付けないのだが、眼科とは言え私は正式な患者である。他の科でも相談に乗ってもらえるのではないかと考えた。シロスタゾールを処方されたのはその科なので、そこに相談すると言う方法で自分なりに落ちついた。

 1月23日が、眼科の受信日である。その日までは、静かにして胸の痛みが起きないように願うしかない。自分なりに目処をつけると、少し安心する。21日が私の80歳の誕生日、その二日後の診察日に相談しようと、これまでの経過などのメモを用意する。

 当日になった。眼科のほうは、白内障は年齢相応に進んでいるがも緑内障は眼圧が下がってきているのでもう少し様子を見ましょうとのことである。

 その足で、9月に入院していた脳外科の窓口を訪ねる。受付けに状況を話すと、どうも様子が違う。私は脳外科の元患者として相談に乗って欲しいとの希望なのに対し、病院側は体調が悪くなったので自力で病院の診察を受けに来た、そんな扱いなのである。

 すぐに気付いたのだが、私の訪ねた窓口は脳神経外科でもあると同時に、救急外来の窓口でもあったのである。窓口担当者は、私を救急患者として扱い、すぐに看護師の問診へと誘導したのである。そのままベッドへ寝かされ、胸の痛みの訴えから心電図、レントゲンなどの検査が、あれよあれよと言う間に始まった。

 検査結果が出たのだろうか。医師も飛び込んできて、狭心症の疑いがある、直ちに入院せよの指示が下ることになった。今となれば分かるけれど、あの胸の痛みは、狭心症の発作だったのである。眼科の診断が、即日入院という意外な結果を招いた瞬間であった。

 「不安定狭心症」の疑い、これが私につけられた病名である。その日のうちに右腕の肘の内側からカテーテルが心臓まで入れられ、様々な検査が始まった。ところが、病名はこれだけではなかったのである。

 この続きは、別稿「入院、そして手術」を読んでください。

                               2020.4.16        佐々木利夫


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入院への序章