給与所得の性格と課税上の問題点(1)
  

第一章 給与所得課税の沿革
 第一節 給与所得の発祥と発展
 
 1 所得税の創設
 
 我国の所得税は明治20年に創設を見る。その直接の目的は明治15年の朝鮮事件以来、日清両国の関係は危機をはらみ、これに備えての海軍軍備を中心とした戦費調達を租税に求めたことにある(1)。当時の蔵相松方正義は「ココニ所得税法案ヲ起草シ謹テ閣議二仰グ。抑モ此法案ヲ起草シ来二十年四月一日ヨリ実行ヲ企図スル所以ノモノハ、近来東洋諸国国際二関スル現況上海防ノ一事ハ最モ軽忽に附シ難ク随テ基経費ヲ要スルノ巨多ナルト……」(2)と所得税創設が戦費調達の手段であることを示している。

 国税としての所得税採用は国際的にもイギリス、スイス、イタリーに次いで早いものであったけれど、3で述べるごとく税の内容としては極めて貧弱なものであり、早急な財政需要をまかなうものとはいえなかった。只、それにもかかわらず「所得税」という形での租税を考えねばならなかったのは、単に戦費調達の手段以上に国民経済の質的変化自身が要求したためと見ることができよう。

 当時我国の税制は地租、酒造税の外、数種の租税があったが地租と酒造税の収入が税収の大半を占め、とりわけ地租は圧倒的な比重を占めていた。つまり我国の財政基盤は地租を中心とした農業経済に支えられていたということができる。
 併し、他方国民経済はすでに産業資本の段階に入り、商工業収益や金利投資収入はかなり増大しており、一種の農業収益税的な地租以外にもこれら利潤を課税対象の中に含めようとしたのはいわば自然の成り行きであったといえよう。又、二次的にではあるが地租のみではその非弾力性の故から財政需要をまかなうことが困難であること、及び負担の均衡化という目的も認められる。

 つまり従来の税制は当時の社会経済状勢にかならずしも適合せず矛盾を内包し、且つ負担の均衡を失していたため、当時施行されていた諸税の税率を単に引き上げるだけでは収入の増大を期待できないのみならず、負担の不均衡を更に増大させるおそれがあり、このことが所得税創設を促したといえる。
 勿論、「所得税」が租税として確立するためには単なる制定法のみで十分な訳ではなく、所得税についての国民の認識のあること、納税者を確定するための戸籍簿等の整備がされていること、文盲の少ないこと、徴税機構が整備されていることなど、社会的国家的基盤が必要とされる。これらは徴兵、地租などの既存のべースに乗ることができる部分が多かったとはいえ、我国に受けいれられたということで、日本税制は近代国家へのスタートを切ったということができるであろう。

 最初の所得税は次のような条文から始まっている。
 第一条 凡ソ人民ノ資産又ハ営業其他ヨリ生スル所得金高一箇年三百円以上アル者ハ此税法二依テ所得税ヲ治ムヘシ……
 第二条 所得ハ左の定則ニ拠テ算出スヘシ・・・以下略

 2 給与所得の位置

 明治20年の所得税法は戸主を中心とする綜合課税主義であり、給与所得もその一内容をなすものとしてあげられているにすぎない。
 第二条 第一・・・官私ヨリ受クル俸給、手当金、年金恩給及割賦賞与金ハ直ニ其金額ヲ以テ所得トス
 給与所得の範囲としてはほぼ現行のものと大差ない。併し割賦賞与金以外の、即ち一時的に受ける賞与については、そもそも所得税法に一時的収入を所得とする考え方がなかったせいもあって課税所得に含まれていないことは注目してよいであろう(3)。賞与が課税対象となるのはかなり遅れ、大正9年に至って始めて課税される。

 明治32年より法人税を第一種所得税として始めて課税対象となし、第二種を公社債の利子、第三種をそれ以外の個入の所得としていわゆる種別課税主義を採用した。給与所得の内容も「俸給、給料、手当金、割賦賞与金、才費、年金、恩給金・・・・の収入額の予算年額」となり、現行規定に更に一歩近づいた。

 その後20年近く給与所得についてはなんら改正されていない。大正9年にいたり、第三種所得中に「賞与又ハ賞与ノ性質ヲ有スル給与」(第14条1項5号)として初めて賞与が課税所得の対象となったことはすでに触れた。同時に現行規定のような「……此等ノ性質ヲ有スル給与」(第14条1項1号)との文言が加えられ、給与所得の範囲の拡大と共に他の所得との接点についての微妙さもあらわれたといえる。

 時代は昭和へと移り、13年には北支事件特別税の創設、その翌年には同法の改正と毎年増税計画がたてられ、当面課税できる対象を求めて新税が創設され、若しくは既存の諸税の引きあげが行なわれた。
 この結果「税制は2階建て3階建てと複雑を極め」(4)、早急な改正が必要となり、この結果として採られたのが従来の綜合所得税方式から、分類所得税と綜合所得税の二本だてとする制度で昭和15年から施行される。
 この制度の採用は当面財政需要の増加と消費抑制が考えられようが、具体的な税制の立案としては、(イ)税負担の均衡化、(ロ)経済政策との調和、(ハ)収入の弾力性確保、(ニ)税制の簡素化の4点があげられる(5)。つまるところ分類所得税により所得の種類ごとに質的な把握を、綜合所得税で所得の大小による量的な把握を考えたものであり、制度としてはイギリスの所得税制が参考とされ、これにフランス税制が加味されたといえよう(6)。

 ただ分類所得税の目的には所得の質的把握のほかに「税率を比例税率として財政の必要に応じ伸縮を容易ならしめること、負担の普遍化を図るため課税限度を相当低位に定めること、納税の簡易化を図るためなるべく源泉課税の方法を採用すること」(7)があげられ、源泉課税のベースに乗り易いか否かもそのメルクマールとされていたことがうかがえることは興味深い。

 給与所得に関しては初めて「勤労所得」として独立の地位を受け、「俸給、給料、費用弁償金、年金、恩給(一時金たる恩給を除く)及び賞与並びにこれらの性質を有する給与」の規定のもとに以後、若干の変遷を経ながらもその後の分類所得税廃止にもかかわらず現行給与所得規定へと引き継がれてゆく。

 昭和22年申告納税制度の採用と共に分類所得税は廃止される。この原因は分類所得における所得の質的差異が勤労所得以外の各種所得間ではさほど大きいものとは考えられず、地租、家屋税、営業税は次第に収益税たる機能を復活し、分類所得税とある程度重複する面がでてきたためといわれる(8)。

 ともあれ分類所得税は廃止されたが、昭和22年よりは「俸給、給料、賃金、才費、年金、恩給及び賞与並びにこれらの性質を有する給与(以下給与所得という)」(所得税法9条1項5号)として粧いもあらたに、所得区分の問題として現行規定までその地位を保っている。
 ここで初めて賃金という名称が表われているけれど、これは同じく昭和22年に所得税法より着干遅れて制定された労働基準法立案の影響によるところが多いと思われる。(賃金に対する説明は次章3節参照)

 3 給与所得の大衆化

 創設当時の所得税納税人員は全入口に対し0.3%前後にすぎず(9)、昭和19年にいたるも10%程度にしかすぎない(10)。
 一方税収も明治24年には全租税収入6,442万円中111万円と僅か17%にすぎず(11)、創設当時の思惑とはうらはらに財政需要にそれほど寄与するものではなかった。
 併しその後大正7年には酒税を押えてついに第1位となり、大正12年〜昭和9年までは大正14年を除き酒税に及ばなかったものの、昭和10年以降再び首位の座を占めることになる。昭和11年には租税収入(印紙収入、専売益金を除く)中、所得税は25%を占め、この時の酒税は20%、地租は5%であったから、我国税制は地租中心からようやく脱して近代的性格へ歩みはじめたといえる。更に、戦時税制下の状況をみると租税収入(印紙収入、専売益金含む)は昭和10年度の12億円から19年度の128億円と10年間に10倍化し(12)、その中でも所得税(第三種)は1億円から34億円と急速に拡大しているから、昭和15年改正による所得税の弾力性には目をみはるものがある。

 一方納税人員も103万人から1、243万人へと増加し、この期間の人口が6,925万人から7,306万人へと5.5%の増加にすぎないことと考え併せると、それだけ所得税の大衆化が進んだといえ、「これまで所得税を負担したことのない多くの勤労者、農民が所得税の納税者となった」(13)ことを端的に示しているといえる。

 これには所得税創設により商工業利潤、利子収入等を課税対象としながらも「資本蓄積、会社企業の発達等を阻害することを怖れて、資本や株式会社への課税を軽くとどめ、勤労者階級に対する課税に重点がおかれた」(14)ためもあるが、満州事変、支那事変以後の戦争が「総力戦」として「日本の経済力をあげて戦かわれ、その生産力の担い手として労働者階級の比重が大きくなり、戦争が激烈となり工鉱業労働力の不足が痛感されたとき、勤労報国隊等々の形において各層からの労働力が工鉱業に集中的に投入された」(15)ことからもうかがえるように、勤労者数の絶対的増加のあったことも忘れてはならない。
 これら賃労働者の増加は日本の産業構造の変化として、現在の多くのサラリーマソに直結する問題を含み、給与所得というものが最近クローズアップされてきたこととも無縁ではないので次章第一節において詳しくとりあげたい。

 戦後における給与所得者の課税人員は次表のとおりである(単位は万人)。

  年      給与所得者数(A)       給与所得者納税者数(B)     B/A(%)
 25        1,260             994          78.9
 30        1,597             858          53.8
 35        2,275            1,173          51.6
 40        2,783            1,694          60.9
 45        3,306            2,370          71.7
 46        3,406            2,430          71.3
 47        3,452            2,637          76.3
 48        3,610            2,867          79.4

     * Aは労働力調査(総理府統計局)の雇用指数による。
      48年は見込みによる政府経済見通から推計。Bは国税庁税務統計

 昭和30年代にかけて急速に納税者割合が減少(約80%から50%へ)しているが、その後再び増加し、昭和48年見込では80%に迫ろうとしている。
 これに対し事業所得者、農業所得者の納税者割合は10〜20%台であるから(16)、給与所得者への大衆化が強まったとみてよい。更にこれを裏付けるものとして、分配国民所得に占める各層の所得税額も昭和25年には給与所得者11.7%、事業所得者13.8%、農業所得者7.1%であったのが昭和30年にはそれぞれ6.2%、2.8%、1.0%となり(17)、この比率が減税の効果であるとしても給与所得者は47%の減少に止まっており、事業80%、農業86%に比してその効果が減殺されている。

 このように見てくると敗戦後数ケ月を経ないでイソフレーションは昂進し、戦後の国民生活を混乱に陥し入れたことで、戦時中の貯蓄も国債も価値を失い、弾力性の強い所得税がその名目的所得の増加と併せて国民を襲い、重税感を深めさせていったといえる。

 勿論この裏には、産業資本主義−自由経済−安価なる国家といった先進資本主国における租税のパ夕一ンは我国ではついに萌芽せず、税制の改革にもかかわらず前近代的な租税感を脱皮できなかった国民性も、この税に対する忌否的なイメージ並びに重税感の原因となっていることは否定しがたいといえよう。

(1) 明治20年度において軍事費は2200万円に達し、総才出の30%を占めるにいたっている。
    税務講習所 日本租税制度P7
  (2) 松方正義「所得税法ノ儀」 井手文雄 近代日本税制史P6より
  (3) これはイギリスにおける所得源泉説の影響を受けていると考えられる。
    この考え方については本章第四節」を参照されたい。
  (4) 大森トク子 税制百年史  税務弘報18巻1号P99
  (5) 大森トク子前掲18巻2号P113
  (6) フランスでは1917(大正6)年に綜合所得税のほか、分類所得税が創設された。
    井手文雄前掲P104
  (7) 主税局調査課編 昭和の税制改正 P65
    当時の桜内蔵相は昭和15年2月8日の衆院委員会で次のように述べている。
    「…分類所得税の徴収方法といたしましては、出来得る限り源泉課税の方法を採用することとし、以て納税の簡易化を期することと致しました。」同書P78
  (8) 前尾繁三郎 今回の根本的税制改正について 財政 1947年6月号P4
  (9) 井手文雄 前掲 P1O
  (10) 日本経済連盟会編 戦時税制の諸問題P1〜2
  (11) 因みにこの時の地租は37、457千円(58%)、酒造税14、686千円(23%弱)である。
  (12) この間の物価騰貴は2〜2.5倍とされている(大森トク子前掲P130)から
    極めて大きな税収の延びであるといえる。
  (13) 大森トク子前掲P130
  (14) 井手文雄 前掲P37〜38
  (15) 隅谷三喜男 目本の労働間題P28
  (16) 臨時税制調査会答申 昭和31年12月 P51
  (17) 臨時税制調査会答申 昭和31牢12月 P53


                                     文責 佐々木利夫



                              トップ   論文目次   次節   ひとり言