給与所得の性格と課税上の問題点(6)
  

第二章 社会・経済現象としての賃金給与

 第一節 我国の労働慣行

 1 賃労働者の発生

 資本主義が形成されるためには賃労働者の存在が不可欠である以上、日本における資本主義の発展形成はそのまま賃労働者発生の歴史となるし、同時に労働集約型を基礎とする我国の産業革命とも無関係ではない。

 1760年代イギリスにおいて繊維、鉄工を中心として起きた産業革命の波は、やがてアメリカ、ドイツ、フランスヘと波及してゆくが。我国では比較的遅れて入ったものの短期間のうちに経過したといえよう。その時期は概ね明治19年(1886)頃から明治40年(1907)前後であるとされている(1)。その始期が所得税創設の明治20年と付合するのは決して偶然ではなく、産業資本の発展が利潤を生み、賃労働者の増加が明らかになったことをも示すものであろう。

 産業革命は繊維を中心として起り、鉄道が加わり、やがて日清戦争、日露戦争を経て一応の終期を遂げ、その後独占資本の成立、制覇の遇程へと進んでゆく。この産業発展の歴史は昭和まで次の四つに大きく分けることができる(2)。
 第一期 産業資本の確立期〜日清戦争から日露戦争まで。
 第二期 独占資本の形成期〜日露戦争から第一次大戦後の大正末年頃まで。
 第三期 独占資本の確立期〜大正末年から昭和2年の金融恐慌、昭和4年の世界恐慌を経て満州事変まで。
 第四期 日本型独占資本の矛盾を対外侵略で解決しようとした時期〜満州事変から第二次大戦まで。

 時代背景はこのように考えられるとして、このような時代背景を生んだ地盤を追求してみる必要がある。
 徳川時代、幕藩の財政のみちは農民による以外になく、土地の永代売買禁止や離農者の生国に対する強制送還などで農民は土地に拘束されており、一方において武士の特権階級があり、商工業に使用される者も、いわゆる丁稚、番頭、徒弟、職人として、賃労働者というよりは、将来ののれん分けによる独立経営者になるための過度的な中間段階か、事実上の家族労働力の一部に過ぎなかったから、賃労働者と呼べる者は全階層にわたっていなかったといってよい。何故なら、番頭、職人にしたところで労働している状態は彼等にとってなんら本質的なものではないからである。

 明治維新はこのような体制をくつがえし、明治5年「農業の傍商業を相営み侯儀禁止致し候向もこれ有候処自今勝手たるべきこと」として職業の自由を認め、同じく土地の永代売買禁止を解除した。又翌年には地租改正により金納制がとられ、封建的貢租はいちおう解消されたから農民に対し賃労働者への道は公然と開かれたといって良いであろう。この職業の自由は農工商の身分的区分を無用とさせ、明治維新そのものが武士階級の特権剥奪でもあったから、ここに大量の労働人口の創出がみられるのである。
 しかもこれらの者は技能をもっていることが少なく、他方、貨幣経済、商品経済の浸透は、地租金納とも相まって、あらゆる階層に現金需要を必要とさせ、労働力以外に生産手段をもたない彼等はいきおい賃労働者化せざるを得なくなるのである。

 農民は凶作や家族の病気等から、子弟や自からも出稼型として賃労働者化していかざるを得なかったし、職人階級はその技術が余りにも技能的に専門化していたため、新国家建設の大規模な工事に追従してゆくことができず、又資本の少ないところから請負の形をとることもできないまま、武具職人、工芸関係者をはじめとし、多くが賃労働者化することになった。

 一方、旧武士層においても独立の自営業者になった者は極めて稀であり、官吏、警察、学校に職を見出した以外は開拓者として農民化するか賃労働者化する以外になく、また、農民化した者もその多くが賃労働者化してゆくのは時間の問題であった。

 更に単純商品生産者であった手工業者は、みずから労働する点において賃金労働者であり、他方生産手段の所有者である点において資本家と同一点をもつという二重性格の所有者であったが、商品経済の発展により、二つの方向に分化することになる。つまり富裕な者は部分的に生産手段を転化して小資本家となり、他方没落者は部分的に労働力を売却する賃労働者となる道をたどることになる。
 只、労働人口の創出は、その絶対数の多い農民層からのものであることは容易にうかがわれるであろう。

 このように、主として「農民層の分解と資本蓄積の関連において展開された労働市場は、分解農民の中心を占めた小作貧農およぴ年雇層についてみれぱ、賃労働力として何等技能をもっていなかったから、何よりも雑業層〜人力車夫、工場人足、土建人夫、家内労働へ沈澱として現われた」(3)ことは、純粋な賃労働者と資本家との間に連続体としての特殊な労務供給を手段とする階層のあらわれを示しているといえよう。この傾向は、その後資本制社会が急速に進み、資本と労働の分化が増々甚だしくなってゆく過程でも解消されることなく、現在でもなお残されている。

 2 日本人の雇用意識・賃金意識

 賃労働者の発生を見てきたが、その中で労働者自身はその労働関係をどのようなものとして受けとめ、又使用者はどう考えていたのであろうか。
 賃労働者の大量創出はあったものの、急速かつ一方的なものであったため、労働市場の展開は未成熟であり、ために労働者の側においても労働力を特定の条件で売るという意識が成立しにくく、雇用主は人を雇うというより、封建的な主従関係を基底としたため、賃労働関係が身分関係と分かち難く結びついていたといえる。このことは、例えば明治初期から隆盛を極め、労働者数の最も多かった製糸、織布における女工の立場においても同様であり、明治42年、長野県知事は模範工女表彰に際して次のように訓示している

 「主人に忠実とは常に誠実なる心をもって陰日なたなく熱心に業に服することである。又古語にいわゆる”忠臣二君に仕えず”という心掛けは、唯に昔の武士のみならず、今日といえども矢張り主人もつ人にはこの心持が必要である。」(4)

 又、労働者を経営者と対立するものとは考えなかった風潮は大正2年2月の友愛新報4号において次のように報ぜられていることからもうかがい知ることができよう。

「労働争議は宛かも夫婦げんかの如きものである。資本と労働とは、全然相離し難きものであって、両者は水と魚の関係にあり、持ちつ持たれつでこそ円満に事業を進めてゆくことができるのである。」(5)

 つまり、雇主は被用者に対して権力を持ってはいるが、それは労働を請求する権利とは考えず、被用者自身も賃金を請求する権利として考えるのでなしに、働かせていただく、お金をいただくといった主人と従者の関係にながく置かれ、債権者、債務者として相互にあらわれるものとしては発展しなかったのである。このような労使関係のもとでは、労働力の売買関係は労働者の雇用関係の中に埋没し、なまの人間関係が表面にあらわれてくるのであり、この賃労働関係が未成熟のまま、急速に日本は機械制工場工業化していったのである。

 反面、以上のような「しがらみ」で動く労使関係のウエット性は、かならずしも労働者にとって不利な面ばかりをもっていたとはいえない。不況になっても直ちに解雇される訳ではなく、一時帰休(レイオフ)や特別休暇で生産調整を行うことは最近(昭和49年末〜5O年初)の新聞紙上に良くあらわれているし、希望退職(一種の退職勧告)などの強い人員整理についても「むごいことはしない」(6)という発言そのものが日本の雇用関係を如実にあらわ」している。又勤労者が癈疾しても、なんらかの形でめんどうを見るし、死亡の場合ですら家族の生活を充分ではないにしても救済しようとしたのである。

 このように労働関係が契約関係として発達せず、経営家族主義的に発展してきたことは、その後の賃労働者の意識構成に重大な影響を与えたことは否定できない。
 明治44年成立の工場法が大正5年に施行され、更に戦後、労働基準法が施行されたが「それが現実に行なわれるだけの地盤が社会の中にない場合には、法律というものは現実にはわずかしか、時には全く行われない〜社会生活を規制するという機能を果さない」(7)のであり、「社会行動の次元における法と書かれた法との間の深刻、重大なずれを生」(8)ずることは明らかであるから、この点で日本における労使関係の特殊なパターンが形成されてゆくのである。

 他方、経営家族主義的な関係が旧来の年期奉公的なままで存在していた訳ではない。戒能氏はこの変化の時期を大正時代に求めている。「大正初期に至るまでの紡績女工・・・の女子寄宿舎制度なるものは、労務の提供関係が身体の年期奉公的関係から、債権的な雇用関係に移る経過期をなしていた。・・・かくして雇用関係が、専ら労務の提供を目的とする債権関係と化したのは、実質的には被用者が強制的な寄宿舎収容から抜け出して、通勤を主体とするようになってからのことである。」(9)

 併しこれとても単に労務そのものが身体や身分から切り離されて、一つの抽象的な観念になったことを示しているとはいうものの、雇用者、被用者の意識構造にどれだけ影響を与えたかは疑問であり、現に雇用関係が現在にいたるも日本人の中に契約としで定着しなかっこと、又は契約として定着させるのをお互に嫌ったことからも推察することができる。

 3 終身雇用と年功序列型賃金

 日本の雇用契約は持殊な場合を除いて、特別な事故が発生しない限り、終身或いは定年まで存続するものと期待される、期間の定めのない、しかも企業等への忠誠心が支配する年功序列が中心となる契約であるといえる。このことは、そのような環境にある者に対して必然的にその形態に順応するものとして賃金給与の考え方を日本型のものに定着させることになる。日本の雇用形態の特徴としてはこれら二つ以外に企業別組合をあげることができるが、ここでは前二者、即ち、終身雇用と年功序列について、その発祥と定着をさぐってみたいと思う。

 本節1で述べた賃労働者の発生は従来の徒弟制度的な残滓を残してはいたものの、曲りなりにも封建的な身分制度から解放されたものとして位置づけられたから、労働者は働らかなければ生活できない一方、特定の雇主のもとで生涯働らかねばならぬこともなくなった。この結果労働者の高賃金を求めて他の企業へ移動することがひんぱんに行なわれ(10)、雇用関係が不安定であることを意味していた。

 この時期は産業資本の確立期にあてはまるが、日露戦争が終結し、いよいよ独占資本形成期に移行するにつけ、労使関係の不安定さは軍隊の出動を招くほどの大暴動やストライキを誘発し、単なる力による抑圧や主従関係の強調では対処できないまでになった。このため、新しい労使関係の確立手段として福利厚生の充実、とりわけ共済制度の確立の形がとられることになる。併しそれは労働者の要求の実現というよりは、雇主の恩情主義によるものであり、労使関係は新たに雇主と労働者の親子の情を強調する企業一家的家族主義に基礎を求めようとする方向への萌芽が見られるようになるのもこの頃である。

 労働条件の改善は、その反面において労働者の特定企業への専属という側面をもち、労働者定着制度の長期化は、結局定年退職まで特定企業に専属する終身雇用の発想と結びついてこざるを得ない。加えて初任者や中堅職工の養成制度が大企業において採用され、生産体制を定着させようとしたことは、熟練労働者がその養成した企業へ長く止まることによって一層効果的であるし、産業の発展に伴う専業化や企業内部における分業化は、労働者自身にも特定の企業に雇用される期間が長期化するに伴い、その職場以外での適応性を奪うことになるから、その職場を失うことがその家族をも含む生活の大きな変化とならざるを得ない結果を発生させたのである。

 つまり明治末年以降、企業の労務管理の基本原理は管理の対象を商品としての労働力ではなく、企業に採用される従業員として人間的側面におくことにあり、その結果がたとえば生活管理的な産児制限から戸籍の届出、結婚式や葬式の世話までをもとり込む傾向を見せた。これは、諸外国における賃金コストの引下げ、コスト切下げのための労働生産力の増大といったパターンとは異質なものであり、属人的な労務管理として形成されていったといえる。賃金も従って労働の質によるよりは企業への勤続によって上昇し、労働力の対価としてよりも労働者に対する報酬としての面が鐘調され、更には賃金の引上げよりも住宅やその他の福利厚生施設の充実の方が重要視されたのも、この属人的労務管理の特徴でもあったといえる。

 他方、養成制度は熟練労働者を創りだすことになるが、反面労働者階級の自覚をも高め、これが労使関係の不安定要因ともなった。併し労働者定着政策の要請は、課長、係長、職長…制度の採用による、雇主の意志なり命令が下部へ強力に伝達される機構と、恩情家族主義の思想の徹底が、少なくともこれらの矛盾を吸収することに多大の貢献を果たしたといえる。

 このような日本特有の形態が発生した基盤には「旧武士層(主として明治の貴族、官僚を構成した)の家族秩序を工場制労使関係に導入せしめた、家族制度のイデオロギーとそれを支える物質的基礎」(11)があるとされるが、日本人の精神構造が上下的身分関係を比較的受け入れやすい、もしくは身分関係を創り出し、その中にひたることをむしろ望むといった体質があるとみてよいであろう。
 更に学歴や養成制度は毎年一定時の採用なり卒業を生み出すから、年度単位としての階級があらわれ、このような序列は年功序列の基礎ともなり得るのである。

 かくして、養成所で手当をもらって技能を取得し、年功賃金で増大する家族の生活をまかない、企業の住宅や福利施設の中で定年まで生活を送るという企業による生活保護の体制が経営家族主義の物的基礎となり、労働者自身も企業の従業員として企業の中で陶冶されることになる。この結果、これら終身雇用、年功序列は労働者自身の考え方にも重大な影響を及ぼすこととなる。

 終身雇用の面では雇用主はその労働者の労働力ではなく、身柄を保証しなげればならないかのように観念され、場合によっては労働者の家族、その子弟もまたその企業で採用しなければならぬものとの考え方も出てくる。又、一度雇用闘係に入ると、それは定年まで続くことが期待であるにしろ定着したから、採用の決定は定年までの保証であり、そこに「契約」としての発想がなく、従ってまた契約の解除などというものも、商取引上のものとしてしか考えられていない。この点に解雇における我国特有の問題の発生する要因があるのであるが、詳しくは第四章において触れたい。

 年功序列の面では職階と年功賃金の両面にわたるが、ここにも労働者意識の日本的特質が見られる。通常、壮年期を過ぎると労働能力は低下するから、これに伴い収入も減少するのがむしろ当然であり、そこでは勤続年数自体、それほど大きな意味をもちえない筈である。併し、労働者を定着させ、労使関係を安定させるためには勤続自体に大きな意味をもたせる必要があり、勤続の長さが企業への忠誠の尺度となるのである。そこでは、いかに同一労働同一賃金の理論が論理的に、具体的、合理的に意義づけられようとも、日本の労働者の気持ちのうちには実感として同一年令同一賃金、同一年令同一地位の要求が生れてくることになる。これは雇用関係が特定の企業との間で閉鎖的に形成されたための宿命的な結果であるともいえる。

 第二次大戦後、日本は急激に高度産業経済に移行し、産業構造に大きな変化が生れたが、少な<とも終身雇用、年功序列には殆んど変化はなかった(12)。むしろ「企業は組合と一体となってこれをフルに使用し、合理化に伴う配転、異動、人員整理から残業や年次休暇の割当といったやっかいな問題をみんなそのシステムの中でうまく解決してきた」(13)のである。

 だがこれは戦前におけるものと骨格的には等質であるものの、現象的にはかなり異質なものを含んでいるといえる。このことは、
 (1) ライン中心の組識がライン・スタッフ制となったことや、身分編成が戦後、職種・職能編成に重点がおかれたことにより、学歴区分、中途採用者等の階層編成の矛盾が大きくなったこと。
 (2) 正規従業員の雇用保証が確立されたこと(終身雇用制の定着)。
 (3) 人事考課による賃金の決定巾が小さくなり、基本給中心の賃金体系に再編成されたこと。
 (4) 下請企業の系列編成により、親企業の正規従業員は安定した賃金上昇の源泉を得ることができたこと。
 (5) 企業間競争の激化が従業員の企業意識を高揚させ、企業内労使関係を安定させる効果をもったこと。
等からもうかがい知ることができる。(14)

 つまり、終身雇用は今や経営者の恩情に基づくものではなく、労働者の団結の力で確保されているものであり、年功序列も年令序列型へと質的変化を起しつつあり、「基本となるものは能率給で、生活給はその補充基準となっているに過ぎない」(15)とされながらも、企業への忠誠心が支配原理ではなく、労働者自身の生活確保の要求がその基礎となっている。したがって表面的には経営家族主義の様相が引き継がれているが、実質は家族主義とは異質なものに転化せしめられたとみてよいであろう。

 これは「工場生産制度も確立し、労働力が機械力の総体によって統禦されるようになると、労働の態様は単純化し、労働者の個性が問題となり得る余地がほとんどなくなってくる」(16)ことに伴い、属人的労務管理体制の崩壊が見られると考えて良いが、戦後の厖大な失業者の存在するなかで解雇、首切り反対斗争にもっとも力を注いだ労働組合運動が、戦前の形態を必然的に転化させてしまったと見てよいであろう。

 勿論、このような形成の裏には多数の臨時工が存在したことを否定することはできず、それらに対して「常用の臨時工」という形で終身雇用から疎外し、又正規従業員には「一時帰休」という形で終身雇用を維持させたことなど、様々なヴァリエーションが見られる。にもかかわらず、明治40年代から大正初期にかけて形成され、第一次大戦から大正末期にかけて発展、そして昭和恐慌以後確立された終身雇用、年功序列は、昭和20年代から30年代前半にかけて再編成されつつも、日本型雇用形態として血縁関係にも類似した内容をもち続けているのである。

 他方「中高年令層の流動を阻害しているもっとも大きな社会的要因は年功制と終身雇用制である」(17)とし、逆に経営者がこの制度に負担を感ずるようになっているのは事実であり、若年労働者の移動が最近増加していることは終身雇用制の崩壊であり、むしろ資本主義の法則に従うものであるとする見解(18)もある。新たな労使関係を求めて、再び模索が始まったと考えてよいのかも知れない。

 4 諸手当発生の要因と退職金制度

 「日本の経済の特徴は金銭以外の価値で会社から重役や従業員などに給付される経済的価値が非常に多いところにある」(19)とされたり、「企業がその雇用する労働者に対し、家族の生活費の一部を手当として支給するというのは、西欧諸国では見られない、すぐれて日本的制度である」(20)とされるように、我国では基本給以外の諸手当が非常に多い。これは主として第二次大戦後に発生したものであり、当時の引次ぐ物価の奔騰に追従して、後から後へと種々の名目で生活手当が付加されていった。危機突破資金、結婚資金、研究費、赤字補填金、物価手当、生活補助金、子女教育手当、別居手当・・・。極端にいうなら基本給自体が飢餓資金的な意味しか持ち得なくなるほど多数且、相当な額の支給が見られるようになる。

 このことは、終身雇用制が従業の人数の面でも弾力性を喪失させたため、国家施策、経済情勢、企業経営、労働事情、生活条件など種々の要素に対する賃金の変化に対して調整作用をもたせ、賃金の総枠についてなんらかの弾力性をもたせることが必要であったこと、後述する退職金が基本給をベ一スとしていたために、ある程度基本給を低く押える必要があったこと等が考えられる。只、いずれにしても敗戦により経済事情が混乱し、企業資本が弱体化したためにとられた変則的な賃金体系であったといえよう。

 その後諸手当は整理統合の傾向を見せているものの未だ多岐にわたり、「賃金構成に異常な変化が起りつつあるのみならず、賃金と然らざるものとの限界がすこぶるあいまいとなり、社会的、法律的に種々の困難を捲起している」(21)一方、「最近それらの弾力性や調整機能がほとんどなくなっている」(22)として反省が促がされている。

 只、賃金というものが、日本においては単に労働の対価としてではなく、人間関係の一つの表現、若しくは、少なくともそれとの関連においてみなければならなくなったことは指摘されてよいであろう。だから特殊な立場、条件にある者に対して、その特殊さを賃金という形であらわすのではなく、あくまでも同一年令同一賃金の上に乗っかったところの特別な手当として、年功賃金制を守ろうとしたことのあらわれともみられる。

 退職金制度は「明治末年以降労働者の足止め策として企業間に普及しはじめたのが、第一次大戦後の不況下において、一方では労働運動の主要なテーマの一つとして解雇手当の要求という形でとりあげられ、他方では終身雇用制の一環として、昭和初期に確立されてきた」(23)ものである。

 退職金制度は年功賃金と結びつくことによって、特定企業への終身雇用の中で重要な意味をもつことになる。つまり退職金の額は、単純に勤続年数と退職時の賃金の函数で示されるから、今や労働者は移動を考えず、最初に雇用された企業に忠実に勤務することになる。このことは退職金が懲戒免職による時は支給されないことと相まって、企業への忠実度が更に高まることを意味し、終身の生活が保障されることを示している。かくて、特定企業のもとにおける生涯扶助の地位が定着し、就職は労働者の一生の保障を意味することになったのであった。

 (1) 石井寛治 日本経済史 P222
     本位田祥男 経営史 P191
  (2) 以下の分類は、隅谷三喜男 日本の労働問題 P167によった。
  (3) 隅谷三喜男 前掲 P77
  (4) 山本茂美 あゝ野麦峠 P105より
  (5) 隅谷三喜男 前掲 P185より
  (6) 大屋晋三(帝人社長) 朝日新聞 昭50.1.18
     朝刊12版 P8 「惰報ファイル」
  (7) 川島武宣 日本人の法意識 (岩波新書) P11
  (8) 川島武宣 前掲 はしがき
  (9) 戒能通考 債権各論 P288〜289
  (10) 明治30年代前半の労働事情を詳細に調査した政府報告「職工事情」(1903年)によると「平均一ケ年に殆んど
     全数の交替を見る」とされている。
     隅谷三喜男 前掲P17〜18より
  (11) 津田真澂 日本の労務管理 P101
  (12) 花見忠 産業構造の変化と労働法   ジュリスト増刊 P219
     有泉亨                同 上    P3
  (13) 秋田成就               同 上    P219
  (14) 以上の分類は 津田真澂 前掲 P155〜156を要約したものである。
  (15) 本位田祥男 前掲 P516
  (16) 田中整爾 解雇をめぐる民法と労働法の交錯
     阪大法学77・78 号P17
  (17) 隅谷三喜男 前掲  P156
  (18) 氏原正治郎 日本の労使関係 P314〜315
「今日では、労働者を特定の企業に止めておく誘因は非常に少い。独立する機会はなく、生涯労働者である。それであるならば、なにを好きこのんで低賃金に甘んじながら、一ケ所に止まる必要があろう。…このような状態を見て、人は日本醇風美俗が失なわれ勤労意欲がなくなった、それは新教育のせいだというかも知れない。だが私は強調したい。永いあいだ、経済学者が描いてきた資本主義的労働市場とは、まさにこのようなものなのだ…」
  (19) 金子宏 講議録租税法U P18
  (20) 隅谷三喜男 前掲 P159
  (21) 水島密之亮 賃金の法律上の意義 経済学雑誌18巻4号P67〜68
  (22) 古川昇 賃金規定の改定と運用 P215
  (23) 隅谷三喜男 前掲 P98



                                     文責 佐々木利夫



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