給与所得の性格と課税上の問題点(8)
  

第三節 労働法における賃金

 1 労働契約の民法よりの訣別
 
 民法上の契約が、西欧諸国の自由主義経済勃興期における両当事者の自由、独立、平等を中軸に考えられているため、目本の風土的特質にかならずしも合わず、加えて資本主義の高度化に伴い、事実上、上下、強弱の関係があらわれてきたことに対する充分な対処を期待することができない。そこで両当事者の社会的、経済的な力の差異を認識し、実質的不平等を修正するものとして、労務供給面では労働契約の考え方が発生してくることになり、具体的には「労働者の生活権と労働権を保障し、労働条件の維持向上を目的とした」 (1)労働法の成立と発展があげられよう。

 勿論、「結局労働法というものも、社会法の一つの分子にすぎない。労働法も近代法の契約自由の原則を基本として成立っている点においてやはり市民法と全然根底が違っているというふうには考えられない」(2)としたり、「雇用契約は労働契約の原型にすぎない。もし何らかの相違があるとすれば、民法は自由契約としてそれを把えているが、労働契約という概念は附従契約として把えることの相違にすぎない」(3)とする意見がある。確かに根底にはこの考え方があるとしても、矢張り「典型契約としての概念とは次元を異にする法技術的概念であるという点については、ほぼ見解が一致している」(4)のであり、労働法の一分野である「労働基準法は民法からの訣別を宣言した」(5)とされるゆえんでもあろう。

 労働契約についての見解は様々であるが、主要なものをあげてみると、
 「労働契約とは労働者が使用者に対して賃金その他の金銭的対価を得て従属的労働に服する契約である」(6)
 経済的に従属せる労働のみに限定されず、国、公共団体の権力の下に提供されるすべての労働がその対象をなすとして「労働契約は当事者の一方が相手方の権力の下に服することを約し、相手方がこれに報酬を与えることを約する契約である。」(7)
 「労働契約とは労働者が使用者のために、組識づけられた地位における労働を給付し、使用者が労働者を従属的関係において指揮し、その労働に対し報醐を支払うことを約する契約であって、継続的な労働関係を発生せしめる契約である。」(8)

 これら以外に、労働契約というものは存在しないとして「労働契約の実体を極めるには、民法上の雇用、請負、委任が労働基準法によって、いかように制限されているかを実証的に研究すべきである。」(9)とする見解もある。併しあくまで「労働契約の概念は、民法的雇用契約における自由の原理が、労働者の団結の法認を通じて労働者の生存権の確保という観点から修正を余儀なくされ、かつそれによって滲透を受けるところに成り立つものであり、従ってまた、そのよって立つ原理的基礎も単に民法的原理そのものではなく、生存権的原理による媒介を経た意味での自由、具体的自由であるということができる」(10)から、独自の存在理由を認める意義は充分にあると考えられる。

 勿論、最初から労働契約をいうものがあった訳ではなく、歴史的に見るなら、たとえば農奴のように雇用契約と呼ばれるものすら存在しなかった時代から、それらが徐々に人格を回復して人間として人格を認められるようになり、使用者と対等の立場で契約関係に入ってくるという経過をたどる。このような自覚された意識ある自由人として登場してきたところに、始めて雇用契約の成立を見ることができる。

 併し、このような時代が過ぎて、機械が発明され、産業革命を経て、工場労働者が世界的に創出された時、そこに雇用契約では律しきれないものとしての労働契約の考え方が生れ、発展してきたといえる。

 この意味で
 (1) 雇用契約の発展したもので主として「労務に服する」関係から一定の仕組みの中で「労働する」ことになったのであり、多数の人が一定の組識で労働する結果、そこに一定の秩序立てが必要であるが、それはすでに雇用の中にあった指揮命令権が発展したものである。
 (2) 労働が機械化した工場の中で行なわれることから、生産手段に対する使用者の管理権ないし管理義務が労働契約の中に入り込んでくる。
 (3) 賃金は両者の合意の基礎の上に立ちながらも、労働力再生産の費用として労働者の生活手段であるという面がはっきり出てきて、それは基準法の賛金保護の体系の中に取り入れられる。
 という、従来の雇用契約にない特質が付加されることとなり、この特質がそのまま労働法上の労働者概念、賃金概念に対し大きな影響を与えることになる。

 ともあれ「資本主義の高度化は、雇用契約としての労務契約をば民法上の法律関係として止まることを許さなくなったのである。かくて労働契約な民法上の雇用契約から労働法上の労働契約への転化を余儀なくされた」(12)のではあるけれど、その訣別はあくまでも市民法の修正という形で行なわれたのであり、民法そのものは「労働法の基礎をなす雇用の一般的規定としての意味を保持している」ともみるべきであろう。
 
 2 従属性理論の展開
 
 雇用契約と労働契約との差異を肯定する多数説が用いる概念に「従属労働」ないし、「従属性」ということがあげられる。この従属労働なり従属性が労働法の問題であるのか、労働契約の問題であるのかは、かならずしも明らかではない。しかし、この従属性が労働者概念を定立させるための主要な要素となっているし、一般的にいって従属性のないものは自から事業体を有しているとみてよいから、この問題は給与所得を考える上においても避けて通ることはできないであろう。

 徒属性は、使用者の持つ指揮命令に対する従属をいうとして説明される。指揮命令が必要とされるのは経営秩序の面から見るなら「企業がその目的を達成するためには、この多数の労働力を有効に活用しなければならない。その有効な活用は多数の労働者の行動を経営の面において望ましいと考える方向に結合し規制しうること、たとえば(イ)労働力の正常な提供を確保して労務管理上の要望を充足、(ロ)企業財産の保全その他物理的阻害の防止、(ハ)不正、不誠実な行為の禁止、(ニ)労働者の思想的、団体活動の規制等がなしうることによって可能である」(14)ことからくるものであろう。そして更に、これらを背景に利益集団たる使用はマキシマムな利益追求の手段としても利用したといってよいであろう。只、注意しなければならないのは、この指揮命令権の絶対性が現在では薄れ、単に命令する権利に過ぎ、命令を執行する権利までは含まれていないことである。つまりこの面において契約としての特殊性(たとえば報酬の不払であるとか契約の解除など)があらわれてくるといえよう。

 このような指揮命令下にある労働の従属性は、おのずから指図権のもとにおける従属とは別個独自の性格をもたざるを得ない。指図ということなら、一切の債権関係において債権者がもちうるものであり、少なくとも法律上の従属性とまではいかないからである。従属とはむしろ、労働者の、労務供給者の人格が雇主の権力に服しているというところに、その括殊性があると考えねばならない。権力に対する人格、ここに従属の存立する地盤があるのであり、この故にこそ、労務供給者保護としての労働法のよって立つところがあるといわねばならない。

 従属性について、その奴隷的従属性を否定することはあらゆる学説の共通するところであるが、内容について様々な相違があり、国武氏はこれを階級的従属節、組識的従属説、人格的従属説と経済的従属説の複合説の三つに分類している(15)。

 (1) 階級従属説は「労働者が労働法規の対象外におかれ、民法原理=契約自由の原則下に放任するに足る妥当性のある状態、地位にあるか」をメルクマールとして判断したり、「労働者は法的主体として、いかなる条件で、どの雇主のもとで働こうと自由である点において、特定の雇主に従属するものではないが、雇主の誰かに雇ってもらわなければ生活を維持し得ない点において、総体として雇主、雇主階級に従属する」(17)、「労働契約は平等にして自由な法人格者の水平契約ではなく、資本の権カ的な支配被支配、搾取被搾取、人間疎外の社会的生産関係のもとで不自由な意思主体たる労働力商品所有者の『自由なる意思による合意』と擬制してなりたつ、階級的な従属労働契約である」(18)点にその特徴を求めようとするものである。

 (2) 組識的従属説は「統一体では個々人は個人ではなくなり、全体の部分となる。統一的関係が存立するためには個々人を一つの命令一つの秩序の下に統轄して、統一的な働きをさせる法律の力が必要である。それは統一体を管理する力である」(19)としたり、「労働契約はその給付内容が労働することであって、労働力の譲渡契約ではなく、資本的所有は多数の労働者の「労働過程」を営利目的で組識づける型の所有であることと結びついて、個々の労働者は契約締結の自由をもつが、「内容決定の自由」を喪っている。労働契約の内容たる労働条件は、資本的所有が統一ある組識体による生産活動を行なわねばならないという要請から、資本的所有は一つの定型を定立する。その定型は資本的所有の一方的決定によるのであるが、個々の労働者の承諾という法的擬制を用いる。かくして労働契約関係は、契約の内容面からみれば、資本的所有の営利目的による組識法的関係である」(20)として、統一体なり資本なりの中に個々人の個性の埋没を理論づけようとするものである。

 (3) 人格的従属説、経済的従属説は「労働力を売らざるを得ぬ社会的強制、または人格的主体性ないし自由な合意を通じて現実の労働過程にあらわれる労働者の主体性の喪失、これが従属性にほかならない。…経済的従属は多かれ少なかれ…人的従属関係に立たざるを得ない者の社会的地位を意味し、かつまた他の労務給付者の場合に見られ得ない、それと類型的に分かたれ得るほどの強度において存在する。…経済的従属性は…人的従属性に付随する、もしくはそれに並ぶ重要な従属性の要素といわねばならない」(21)として、労務供給にあたり、労働者自からが使用者の支配下に専属的に服するという事実を把え、そのことが又、労働者が経済的にも支配されなければならないことと相乗的に作用するとしている。

 勿論これらに対して「それは労働契約によって、労働者が使用者の指揮命令に服することを示すに過ぎないものであって、それ以上の権威を使用者に認めるものではない」(22)とする、従属性を否定した有力な説もあるが、従属説の立場としても、決して旧時代的な身分関係から由来する労務の担供をも含めようとするものではない。それらはむしろ、隷属性であって労働関係以前の問題として解決されねばならないのであり、「使用者の措揮命令に服する」こと自体を、自から生産手段を持たない者の立場から積極的に認め、意義づけようとするものなのである。

 前述した従属説の様々な立場はそれなりに首肯できる多くのものをもっている。
 階級従属説は、結局労働者階級を搾取、支配の面で雇主、資本階級との対立において把え、これを労働者階級保護の面から意義づけようとするものであって、いわば目的論的な解決法であり、有権的な従属性の説明としてはやや難点がある。

 組織的従属説も人的色彩の濃厚な契約が近代資本制経済機構のもとで後退し、使用者なるものが生身の一個人から、客観的、統一体的な存在としての企業それ自体へと変化することに伴い、個々人が組織の中に埋没すること自体は否定できない。併し組織化の要請は社会生活のあらゆる分野において存在するのであるから、組織化における従属性を労働契約共通の従属性と考えることはその外延が広すぎる傾向をもつのではなかろうか。

 一方、人格的従属なる名称は、人格主体性そのものが消滅してしまうがごとき印象を与え、経済的従属は、あたかも労働そのものが売却されるかのごとき誤解を招き易いが、繰り返し述べたごとく、「労働者は身分的に解放された時、経済的に資本に従属するものとなった」(23)のであり、労働そのものの売却なのではなく、労働力、換言すれば「人間の身体、すなわち生きた人的存在のうちに実存して、彼が何らかの種類の使用価値を生産するたびに運用する、肉体的及び精神的な諸能力の統計」(24)の対価として、有形無形の経済的利益を受けることを意味するのである以上、従属性の本質をここに求めることは不自然ではない。しかも、これらの従属性の故に労働者階級が資本階級と対立するのであり、組織の中に埋没せざるを得なくなるのであるからこそ、新たに労働法による保護の面が強調されてくるのである。
 
 3 労働法上の労働者概念
 
 従属性が現象面であらわれてくるのは、ある労務供給者が労働法の適用される労働者であるか否かの点についてである。

 労働法規上、労働者の定義は次の三ケ所にしかあらわれてこない(25)。
 「この法律で『労働者』とは、職業の種類を問わず、賃金、給料その他これに準ずる収入によって生活するものをいう。」(労働組合法第3条、労働金庫法第2条)
 「この法律で労働者とは、職業の種類を問わず、前条の事業又は事業所(以下事業という)に使用されるもので、賃金を支払らわれる者をいう。」(労働基準法第9条)

 最低賃金法、労働安全衛生法では労働基準法を準用しているが、労働関係調整法、失業保険法、職業安定法、労働者災害補償保険法その他においては、何ら定義づけられておらず、前記の二条文がすでに既存のもの、又は労働法全般にわたる包括的な概念であるとして承認されているとみてよいであろう。しかし、「労働法上の労働者とは何かの問題は、いうまでもなく、労働法学最初にして最後の課題、いわば最も困難な課題の一つ」(26)であるとされている。

 判例の傾向は大別して次の三つに分けることができよう(27)。
 (1) 雇用契約説 民法上の労務供給契約類型を前提として、仕事の完成を目的とする請負及び一定の事務処理を目的とする委任を除外し、労務供給それ自体を目的とする雇用についてのみその労働者性を肯定するもの。
 (2) 労働契約説 民法上の契約類型には必ずしもこだわらずに、使用従属関係の有無を基準として労働契約か否かを判断するもの。
 (3) 混合契約説 使用従属関係を程度の問題として相対的に把握し、労働者性判断もまた個別法規、制度の政策、目的、立法趣旨に従って相対的に決定するもの。

 現在、雇用契約説を支持する学説は殆んどなく、又判例も少ないといってよい。従って使用従属性を労働者性の中心にもってくること自体は、労働契約説にしろ混合契約説にしろ肯定するところであるから、具体的な適用例を少しく判決で追ってみたい。

 「(放送タレントに関し)優先出演契約が使用者たる放送局の一方的に決定・指示する出演の時間、場所、内容その他に必ず従がわねばならぬ限り、放送局と契約者との間に使用従属関係が存在するので、他の楽団員の契約を更新しながら、Aについて契約更新を拒絶したことが実質的には解雇であり……不当労働行為である」(28)

 「すなわち労働者とは、使用者の指揮命令を受け、その監督のもとに、いわゆる使用従属関係のもとに労務に服している者を指称するものと解すべきであり」()29

 「出演契約が、専属出演契約、優先出演契約を経て、回数出演契約となったことと、回数出演契約について他社出演が認められ、就業規則別の適用が排除されていることが認められるが、生活給的な固定的契約料が支払らわれていること、契約が特別の事情のない限り更新されていること、他社出演はアルパイト程度であることなどにより、芸能員は一般職員のそれと異なるところはなく、結局使用従属関係を認められるから労働者である」(30)

 「労働法は従属労働提供者を実質的に保護するために市民法に対する修正的意味をもつものであるから、その対象となるのは、単に典型契約としての雇用契約のみならず、従属労働の性格をもつ限り、たとえそれが本来なら請負に分類されるべきものであったとしても、なおその従属性という側面において労働法の保護を受けるものというべきである。ただそれが請負としての性格をも有する限りにおいて、換言すれば、労働の従属性が雇用におけるそれよりは稀薄である点において、その従属性の度合に応じて保護の程度も減少することは当然のことである。」(31)

 この最後の東京地裁判決がいわゆる混合契約説の稿矢として注目されているものであるが、従属性というものを、有無の割り切りではなく、一つの連続体として把え、そのウェイトによって保護の軽重を考えるとすることは、労務提供そのものが多様化し、それに伴い労働者概念もまた、ある漢然たる輪郭をしか示し得ないものであることを示唆していているものとも受け取れる。

 学説の多くも従属性を中心として労働者性の判断根拠としている。
 「労働者はいかなる場合においても、従属性から脱却する自由を保持しているといえよう。しかし、彼が生産手段の所有者に成りあがるか、または他人の指揮命令下に労働カを提供することなしに、労働力を自ら対象化し、労働力の価値を自らの力で実現させる生産者になるか等の変動がない限り、やはり他人に雇用されざるを得ないという地位=労働者としての地位に依然として止まらざるを得ない」(32)、「労働法の対象となる労働者はいわゆる従属労働を給付する労働者である」(33)とされるほか、「民法上はいちおう請負または委任と見られ、ないしは自営の業者のように見えても、そこに実質的な使用従属関係が認められれば、なお労働者であるとされる場合が(通説)である。」(34)ことからも、従属性は一般に承認されたと考えて良いが、他面、混合契約説的な「労働法の適用については、その従属性の程度により差を生ずべきものであり」(35)とする意見もあらわれ始めている。

 勿論、「現実の経済社会にあっては、経済力の差異に基づいて経済的に他人に従属する形で仕事をし、それによって生活するという実態は広範囲に存在し、又拡大する傾向にある。併し単にこのような実態のみを把えて、すべて従属労働であるとすることは明らかに誤りであり、具体的にどの範囲の者が労働者に該当するかを判定することは容易ではない。…今日の経済社会においては労働者の限界はきわめて微妙であって、これを具体的に示すことはほとんど不可能であろう。
 結局個々の具体的な事例についての労働委員会ないし裁判所の判断の集積をまつほかはないと思われる」(36)のが悲観的ではあるが現実なのかも知扱ない。従属性の程度という考え方があらわれた以上、その程度の大なるものから小なるものへ、更には従属性のほとんどないものまでへの連続体を認識しなければならなくなったのであり、快刀乱麻の法理は見出し難いのが現実であるかも知れない。

 只、その場合においても、従属性の程度の問題であって、従属性そのものがメルクマールとして否定されることはないであろうし、又従属性の判断は個々人の自己の感覚としての従属性意識なのではなく、客観的な要因として確立されなければならないであろう。


                                     文責 佐々木利夫



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