時間どろぼう
  
 ミヒャエル・エンデの「モモ」という児童文学を読んだ(大島かおり訳、岩波書店)。実は、この本との出会いは東京の友達からのメールによるものである。彼はこの本についてこんなふうに私に伝えてきた。

 「さて、時間のことです。ミシャエルエンデの「モモ」(岩波)は時間どろぼうと闘う話 ですが、シュールリアリズムの手法で作られた物語りだとおもいます。論理ではたいへ んなことになる内容でしょうが、絵画のように感じられておもしろく読めました。

 これだけである。これが全部である。これでは不親切である。そもそもこの物語を互いに知っているという前提があるならまだしも、私はこの本を読んだことはおろか題名すら知らないのである。そんな相手にたったこれだけの感想をぶつけるというのは身勝手である。

 「読んでみたら」、と誘っている訳ではないけれど、一人で面白がっているなんぞは「必ず読め」と強制しているのと同じである。
 それが例えばトルストイのなんとかかんとかであるとか、ドストエフスキーがどうしたこうしたなどと言うなら、そんな誘いに流されて読むことなんぞ決してなかったとは思うのだが、なんてったってこの作品は児童書である。児童書を馬鹿にしているわけではないけれど、だいたいこの作品を知らないと言うこと自体が癪ではないか。

 それでも図書館でさがせなかったというならそれきりだったと思うのだが、なんとけっこう著名な作品らしく近くの図書館であっさりと見つかってしまったというのも、私がこの作品を知らないことへの当てつけのようで更に癪ではないか。末尾に対象者が小学5〜6年以上とあり、けっこう分厚く360ページものボリュームがある。

 この本は1973年に発表されたとあとがきに書いてあるのでもう30年以上も前の作品である。題名は「モモ」だけだが、こんなに長いサブタイトルがついている。
  「時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」

 主人公の少女モモは年齢も素性も分からないみなし子である。たった一人で都会の片隅の廃墟になっている円形劇場のくずれかけた小部屋で人々のめぐみを受けて暮らしている。その町はずれにはすでに「見上げるようなゴミの堆積が続き、巨大な焼却炉に運びこまれている」(P150)。「眠らない大都会」(P162)も「高層アパート」(P170)も今の時代と少しも変ることはない。

 そうした中で、人々は将来のために蓄えるべき貴重な時間を現実の生活から生み出すために必死になって努力している。だが、どんなに節約しても人々は不機嫌になり、くたびれ、怒りっぽくなっていくだけである。
 死に物狂いで時間を倹約しても、せわしなさがつのるばかりで不安だけが増長していく。まさに「人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそってなくなってしまう」(P95)のである。

 それは灰色の男たち(時間どろぼう)に節約した時間を盗まれてしまうからである。自分のための効率化や迅速化や忙しさが、結局は時間どろぼうのための時間を作り出しているだけなのである。
 やがて時間どろぼうはその矛先を、気ままに生きているためにその生活から時間を盗むことができないでいる子供たちへと向ける。大人を使って施設を作り子供たちを合理的で効率的な管理社会の中へと押し込めようとし始めるのである。

 豊かさを求め、効率を目指し、どうにかして時間のゆとりを見つけようと努力すればするほど、それとは裏腹に人はその創り出した時間のことごとくを時間どろぼうに盗まれ、一層忙しくなっていくのである。

 こんな理不尽をどう解決すべきなのか。時間どろぼうが今度は一人ひとりの人間からの小刻みな時間を盗むのではなく、時間をまとめて産み出している根源者「ホラ」へと対象を代えようとするに及んで、ホラは自らの役目である時間の供給を止めることを決意する。

 そうすることで時間どろぼうを殲滅させることはできるかも知れない。だがしかし、時間を止めることは時間の供給者であるホラの働きまで止めてしまうことになる。盗まれた時間を人々に返し、新しい時間を与え続けられるようにするためにはホラを復活させなければならない。それはだれの役目か。モモに与えられた使命は重大である。

 こうした時間の死と再生の物語はモモの活躍でハッピーエンドへと向かっていくのだが、この話は崖っぷちにあるかのような現代を予言し、間違いなくそうなるであろうことを痛切に皮肉っていると言ってもいいだろう。「忙」という漢字は「りっしんべん」と「亡」というつくりからなり、りっしんべんの語源が「こころ」であることから「忙しい」とは「心が亡ぶこと」だとは良く聞かされる言葉である。
 それはまさに、忙しいことが正義であり人が生きていくための目標であると信じ込まされている我々の生き様への反語になっているのだろうが、それでも「お忙しいですか」が日常語になっている現代には隔靴掻痒そのものになってしまっている。

 そうした思いに気づきながらも、退職してからのこの小さな事務所に流れる自分だけの時間にひたりながら、腕時計を外し、車を捨て、仕事とは何か、更には生活とは何かを考えていく中で、自分なりに反芻を続けてきた(『ゆっくりの時間』、『永遠に時を刻む』、『今を生きる』)。
 そうした結果は決してエンデの思いに背くものではなかったし、むしろ時間どろぼうからの時間の取り戻しにつながっているとさえ思っている。

 そうした意味で、この作品はどこかで私を応援してくれているような気がしている。だがしかし、そうした応援歌を得たことがまた癪なのである。この作品を教えてくれた友人に感謝しつつ、現実の生活がモモの指摘にはなかなか及ばないことに改めて気づかされ、どこか別な形で仇を討ちたいものだと密かに考えているのである。

 なぜなら、この小さな事務所で確かに時間は私のもとへと戻ってきた。そしてそれはゆとりと言えばゆとりなんだけれど、それ以上にふさわしい別の言葉が実は他に存在していることが身にしみて分かってきているからである。それは決してエンデの責任でも、この作品を教えてくれた友人のせいでもない。

 それは何か。たった一言・・・・・・『怠惰』である。著者も作中人物のホラに言わせている。「人間への致死的な病、それは退屈症だ」(P322)と。
 今の生活が決して退屈だとは思っていないのだが、怠惰と退屈とを比べること自体がそうした致死的な病が私を侵食し始めてきている証しなのではないかと思ってしまう。灰色の男たちはまだ生き残っているのだから。

 とは言いつつも、なんだか実感としてはとても幸せな怠惰であるかのような気がしている。ただ、それにもかかわらず、彼の言う「シュールリアリズムの手法」についての理解は未だ混乱に包まれたままというのも、これまたなんとも癪なのであるが・・・・・。



                     2005.11.04    佐々木利夫



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