さて翼を得た男は密かに実地の練習に励むことになる。なんたってペーパードライバーである。いかに原付が原動機付自転車の略称であろうとも、スターターレバーをキックしてエンジンをかけるところから始まるこのマシーンは、人力のみを頼りとする自転車とはまるで異なる乗り物である。

 50ccバイク、この数字は排気量を示している。考えてみれば普通の牛乳瓶一本が180ccなのだから、このエンジンの本体はせいぜいが毎朝職場の机にヤクルトおばさんが置いていくあの小さなプラスチック容器くらいの大きさしかないということである。果たしてこんなもので本当に動くのだろうか。

 住んでいるのは公務員宿舎であり、隣近所のほとんどが同僚とその家族である。ガソリン満タンで密かに配達してもらったバイクは物置に鎮座しているけれど、まだ動かしたことはない。天下御免の免許証こそ手にしたけれど、真昼間に堂々と仲間や奥さんたちの見ている前で運転するほどの技量もなければ度胸もない。

 かくなる上は休日の早朝を使って密かに練習するしかない。かくもあろうかと、バイクが配達された翌日の土曜日はあらかじめ休暇を取ってある(当時はまだ週休二日ではなく土曜日は半ドンであった)。近所が起き出すには少し早めの朝がきた。天気は良し。すぐ近くを流れている札内川の堤防まで人目につかぬようバイクを静かに押していく。

 覚悟はいいか。ヘルメットをかぶり静かに車体にまたがり、シフトペダルをニュートラル、つまりギアの入っていないエンジン空転の状態にして、まずは右足でスターターレバーを強く踏み込む。
 なんと、中古とはいいながら一発で軽快なエンジン音が響くではないか。クラッチとシフトペダルの三段式変速機の扱いも昨夜のうちに説明書で了解済みである。アクセルは左手ハンドルのグリップを手前に回せばいい。

 両足を地面に置いたままギアをローに入れ静かにクラッチを元へ戻す。動く、動く。なんと快適な走りだろうか。恐る恐るだからそんなにスピードは出せないが、我が体躯を乗せてこの50ccは朝の光を浴びながら、誰一人いない堤防の道を軽快に動いてくれたのである。

 今度はニュートラルにして思い切りエンジンを二度三度ふかしてみる。アクセルに呼応してエンジン音が次第に高まっていき車体の振動が体をしびれさせる。

 翼を得たひな鳥は、かくして大空へと飛び立つことが許されたのである。
 バイクをそのまま走らせる。どこへ行こうか。車の多い街中はとりあえず遠慮することにしよう。そうだ、帯広は農業地帯である。町のすぐ近くまで畑が迫り、しかも舗装された農道がいたるところに延びていて車の通行も皆無に近い。農道を走ろう。

 そう言えば仲間の車に乗せてもらったとき、農道のあちこちに帯広空港への案内を示す交通標識があったことを思い出す。この堤防沿いに札内川を遡っていけば帯広空港方面だ。単身赴任ではあるがJRでの金帰月来(本当は日曜日の夜遅く帰ってくるのだけれど)の可能な帯広だから、飛行機を使うことなど皆無だけれど、一度くらい飛行場とやらを見ておくのも悪くない。

 初日の試運転と空港までの成功体験が男を有頂天にさせる。スタンドでバイクにまたがったままでの給油方法も雑誌がちゃんと教えてくれている。
 思い上がりだろうが身勝手だろうが、これでガソリンと時間さえあれば、この身は十勝はおろか北海道全土を手中に治めたも同然である。
 それからの土曜日曜は我が恋人との片時も離れることのないハネムーンが続く。

 管内の観光地や温泉巡り、昨年挫折した「襟裳岬自転車行」(別稿参照)への再チャレンジなどなど、休みなき挑戦が続く。男はまさに天翔る翼を手に入れたのである。

 ところでこのバイクにはオイルメーターがついていない。つまりガソリンの残量が分からないのである。走るたびに手帳にメモしている走行キロ数を頼りに給油しているが、時にこんなこともある。オイルタンクからエンジンへの給油パイプの途中に小さなコックがついている。普段は閉めておいて一定量以下になってガス欠症状になったら、スタンドまでの予備のガソリンを供給するために使うものである。
 この予備ガソリンだけで20キロ程度は走れるのだが、このことを知らずに山道でガス欠状態に立ち往生し途方に暮れたこともあった。

 また、このエンジンは山道を登り続けるなど長時間連続して負荷をかけ続けると、あっさりオーバーヒートしてエンストを起こしやすいのである。そうした時は30分から1時間程度エンジンを止めて冷やしてやらなければならない。
 それもこれも、何度かのトラブルを重ねることで運転知識にも十分磨きがかかってきた。

 「狭い日本にゃ住み飽いた/海の彼方にゃ支那がある」は、昭和の始めに流行した「馬賊の歌」の一節だが、免許取得僅か一ヶ月少々で全国一の面積を誇る十勝の国も狭くなった(と、その免許がまだ蝋でできた翼であることも忘れてイカロスは自惚れる)。

 土日を使ったのかそれとも一日くらい休暇をとったのか、一泊の行程で摩周湖を見たいと思いつく。日本人の多くが一度は行きたいと思い、北海道と聞けば打てば響くようにイメージの湧くであろう摩周湖である。ここ帯広からならそんなに遠くはない。それにこのコースを行けば、釧路、川湯、阿寒など道東の代表的観光地を一巡できるではないか。

 思いつくと頭の中はそのことで凝り固まってしまう。7月早々の払暁、我が愛車を駆っての摩周湖行きが始まった。今日は弟子屈町へ泊まり摩周へは明日向かう予定である。午前中に釧路へ到着した。思ったより早かったので霧多布(釧路から根室方面約120キロの浜中町にある断崖の岬である)まで足を延ばす。地図を頼りに市道や町道なども利用しつつ、ちゃんと地図も読めるじゃないかと自画自賛しながら宿泊地弟子屈温泉(現摩周温泉)へと向かう。

 目的は明日の摩周湖である。朝からの長旅で実はくたくただし、軽くビールだけにして早く寝ることにしよう。
 摩周湖までは登りの続く山道である。オーバーヒートの心配があるので一気に行くような無理はせずマイペースである。雲ひとつない快晴の摩周湖が広がる。何度か訪れたことがあるけれど、一度も「霧の摩周湖」になどぶつかったことはない。今日も素晴らしい眺めである。第一、第三展望台を経て下り道を硫黄山へと向かい、そして川湯から出発地の弟子屈へ戻る。ここからは阿寒横断道路を経て阿寒湖まで一直線である。

 阿寒までくればすぐ隣町が松山千春で有名な足寄町であり、その町を過ぎると我が管内の士幌町である。帯広まではもう少しあるけれど十分明るいうちに我が家につけると一安心する。
 足寄町を過ぎた。午後2時くらいだろうか、あと2時間もあれば帯広である。急ぐこともないのだが、翳ってきた日差しに少し風が冷たくなってきた。早く帰ってゆっくりと旅の思い出を肴にひとりグラスを傾けるのが楽しみである。

 左手に松林を横目で眺めながら、緩やかな下り坂である。風を感じていた私の目の前に、突然人が飛び出してきて旗のようなものを振り出した。警察官であった。
 「これ、原付ですよね」、「制限速度が時速30キロだと知ってますよね」、「35キロオーバーです」。スピード違反が30キロ以内なら反則金だけの行政処分で済むのだが、それを超えると免許停止の赤切符である。

 あっさりと「そのうち裁判所から呼び出しがありますからね」と赤切符を渡され、今すぐ免停ではないからそのままバイクを走らせてもいいと言われておずおずとまたがる。今までの快適さはどこへやら、木の陰、建物の陰などいたるところに警官が潜んでいるような気持ちにさせられるものだから、その後は法定速度での安全運転である。我が家での祝杯の気分などすっ飛んでしまう驚天動地のできごとであった。

 もちろんバイク旅行のことなど誰にも伝えていなかったので、素知らぬ顔で翌日からの仕事が始まった。そして一週間ほどたって、帯広2年目の私に転勤辞令が渡された。帯広へ来る直前まで勤務していた国税局へ戻ることになったのであった。

 単身赴任とは言えどけっこうな荷物がある。免停にはなったけれどまだ検察庁からの処分がないので免許は有効である。懲りない男は突如、バイクを自宅の札幌まで自力で運ぶことを思いつく。女房子供に我が勇姿を見せるチャンスでもある。辞令が出てから10日目くらいまでに札幌へ赴任すればいい。その間、地元へのあいさつ回りなどもあるけれどゆっくりした時間がとれる。

 数日後の早朝、バイクにまたがった男は札幌目指して颯爽と宿舎を後にしたのであった。
 この狩勝峠を越えると隣接する苫小牧税務署管内の日高町である。そろそろ頂上かと思ったとき、後ろから大型トラックがいきなりクラクションを鳴らした。少しセンターライン寄りを走っていたのだろうか。突然の警笛に思わずハンドルを取られて転倒した。上り坂だしそんなにスピードは出ていなかったのだが、そ知らぬ顔で追い越していくトラックの後尾を見つめる視線に胸のあたりが痛い。

 それでも外傷はないしバイクも壊れていない。そのまま札幌までの恐らく7〜8時間、乗りっぱなしの運転は、ぶつけたらしい肩から胸の付近がバイクの振動につれて少し傷むけれど、とにかく無事に家まで着くことができた。
 風呂に入ってビールを飲んで寝る。翌朝起きて驚いた。右の肩付近から胸にかけて紫色に腫れ上がっているではないか。あわてて近くの整形外科へとすっ飛んでいく。

 鎖骨骨折、直ちに入院して手術が必要だとあっさりと医者に宣告されるが、転勤の始末がまだである。なんとか2〜3日の猶予をもらい、その足で赴任先の国税局へ向かう。担当課長の顔を見るなり、「本日着任します。ついては明日入院しますので休暇を下さい」と一方的に宣言する。
 JRで帯広にとって返し、部下や仲間には事故のことは伏したままで「肩が痛むので荷造りや発送は指示するのでお願い」と、これまた一方的に宣言してどうやら難局をクリアする。

 18日間の入院、手術、退院だった。免停はその後札幌の裁判所からの呼び出しがあり、事実をそのまま認めたことで略式命令で科料とともに確定した。それを契機にバイクは自宅の物置にほこりをかぶったままとなり、約一年後に廃車処分をしたことで私のバイク経歴は免許取得後僅か2ヶ月足らずで終わることとなったのであった。

 免停は取消しとは違うので免許そのものはしばらくして復活した。そしてそれから三年、このバイク免許証に新たに普通免許の記録が書き加えられることになる。
 だが、このバイクからの教訓は、肩先に今でも残る手術痕とともに永久に私の体への刻印となっているのである。(前編へはここをクリックしてください)。



                        2006.9.26    佐々木利夫


          トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



我がバイク始末記(後編)

      免許停止そして鎖骨骨折
      (前編はこちらをクリック)