訳の分からない無差別の、しかも多人数に対する殺人がこのごろ増えてきていると書いている途中に秋葉原の事件が起こった(別稿「人を殺す気持ち」参照)。
 そうした事件と直接は無関係なのだが、一方で裁判の確定した死刑囚に対する死刑の執行が増加してきている。もちろん死刑の是非を論じることに異を唱えるつもりはないが、少なくとも現行法においては「(死刑執行の)命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなればならない」と定められているのだから(刑事訴訟法第475条第2項)、その規定に沿って執行されることは当然のことである(死刑執行については別稿「いま司法が面白い」、「死刑廃止と裁判員制度」参照)。

 ただ個別の死刑執行(宮崎勤事件)に関して識者もどきの評論家がしたり顔で「事件の背景が不明なまま執行されてしまうと真相は永久に闇の中・・・」などとテレビでにこやかにのたもうなどは、一体何が言いたいのかと理解に苦しむ。

 死刑の意味については様々な学説があるだろうけれど、この事件について言えば死刑囚は事件の真相にについてなんら語ろうとせず、殺人に対する反省の言葉すらもないまま犯行からなんと19年を経ていたのである。事件の真相を知り、そのことで次の犯罪を食い止めるための手がかりとすると言う理屈そのものを分からないとは言わない。
 だがその理屈は決して死刑の執行を否定する論拠にはならないと思うのである。確かに死刑囚本人が事件を一番良く知っていることは事実であろうが、人の心の闇が本人にだってきちんと理解できているのかどうかは極めて疑問である。しかもその闇に対して死刑囚本人が無関心なのであればなお更のことである。

 もちろんそうした私の考えの背景には、私自身の評論家嫌いがあることは否めない。どんな事件にも、居るのか、マスコミが見つけてくるのか、それともにわかに評論家に仕立て上げられるのか良く分からないけれど、「いかにも私が専門家です」みたいな人があちこちに現れて解説を始めるのは私にとって見れば無責任極まりない意見の単なるバラマキではないかと思えてならないからである。

 話が外れてしまったようだ。ここで私が言いたかったのは、死刑執行の増加とそのマスコミ報道のはしゃぎぶりに死刑が本来の意味とは異なるメッセージを国民に与えているのではないかと思ったことである。
 現に朝日新聞は夕刊のコラム『素粒子』は、続けざまに死刑執行書に署名した鳩山法務大臣を「死神」と呼称し、そうした呼び方は死刑の執行を望んでいる犯罪被害者の遺族をも死神と呼ぶことと同義であるとの抗議を受け、謝罪している。

 死刑の執行を正義の行使などと持ち上げようとは思わないけれど、日本に死刑の制度が法定されており、きちんとした司法制度の下でその罪刑が確定したのであれば、執行はまさに当然のことであると考えている。

 ただ死刑執行が多くなってきて(この背景には死刑判決そのものの増加があることは否定できないだろう)、それがマスコミで興味本位でとりあげられることで、死刑の意味が軽くなってきているのではないかと、私は少し危惧しているのである。
 それはこの文の冒頭でも書いたように、無差別殺人の増加がどこか国民の理解できないレベルになってきていることと関係があるのではないかとの危惧でもある。

 無差別殺人なのだから、加害者の言い分として「殺すのは誰でもよかった」となるのは当然のことかも知れない。まさにそうした行為を「動機なき殺人」、「無差別殺人」、「通り魔殺人」と呼ぶのだろうからである。
 でもそうした言い分に、時に「殺すことで死刑になりたかった」との意思が付け加えられることも多くなってきた。私はそこのところに自殺願望が形を変えてきたのではないかと思い始めているのである。

 日本の自殺はここ数年、年三万人を超えて推移している。年齢も原因も様々だし、数として多いけれども特異な現象が表われているとの分析も特にないようである。
 それはそうなんだけれど、最近の若者のいわゆる「自分探し」みたいな言葉にひっかけた、人生や生甲斐や目的までをも他人任せや他人に依存するような風潮、そして「死刑になりたかった」という発言などを考えると、自殺つまり自死までをも他人に依存しているのではないかと思えるようになってくる。

 自殺するのだったそれなりのエネルギーが必要になるだろう。そのことは例えばうつ病などでも本当にうつ状態のときには自殺が少なく、むしろ回復に向かってエネルギーが溜まり始めた時のほうに実行が多いと言われていることからも分かる。
 自死するだけのエネルギーが足りない、自分で自分を始末するだけの力がない。だからそうした自死までも他人に依存しようとしているのではないかと思えてならないのである。

 若者による最近の無差別殺人多発の原因の一つに、「他人任せの自殺願望」があるなどと証拠もなしに認定してしまうことにはもちろん異論のあることだろう。
 ただ、自分では死ねないから他人(つまり法律による死刑)にその実現の手段を委ねるという感情は、例えば「寒空に空腹で公園や軒下で過ごすよりも拘置所や刑務所の方がまし」とする考えともある程度共通するのではないかとも思えてくるのである。

 嘱託殺人という語のあることを知らないではない。ただ、表現として適切かどうかの自信は必ずしもないのだけれど、自殺と言う究極の自己実現とも言うべき手段までをも他人に依存しなければならない時代になってきたのだろうかと、ふと今の時代の暗闇を垣間見ているような気がしてくるのである。



                             2008.6.5    佐々木利夫


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無差別殺人と自殺願望