近代国家は基本的に立法としての国会、法の執行としての行政、そして適法性の審査たる司法の三権分立で構成されていて、日本もその例外ではなく国民生活に深く係わっている。国会は選挙を通じてどことなくではあるが参加意識があり、行政はそれこそ税務署や市役所や学校などと言った生活に比較的密着した形で存在している。

 だが司法の分野は日常生活ではなかなか馴染みがない。警察は司法だと思うかも知れないが、犯罪を犯して逮捕されるとか、犯罪捜査に協力するなどの場合には司法の側面が出てくるけれど、一般的に交番で道を尋ねたり落し物を届けたり、更には交通違反切符を切られるなどは警察行政の側面が強い。

 もちろん借金の取立てや交通裁判などで、検察庁や裁判所に係わることはまさに司法の場ではあるけれど、一般的には馴染みの少ない分野であろう。

 とは言え、来年4月からは新たに裁判員制度が始まるから、その意味では国民全体に司法が直接係わってくることになる。
 裁判員制度についてはこれまで何度も書いたから(別稿「無関心の罪」、「裁判員制度と無関心」、「ホントのことを言え」、「リンドバーグ事件」、「執行されない死刑判決」、「死刑廃止と裁判員制度」参照)、ここでは触れない。

 ところで最近立て続けに司法を巡る面白い話が起きている。

 一つはいわゆる「ロス疑惑」と呼ばれた今から27年も前の事件である。夫婦でロスアンゼルスを旅行していた妻が、他人に狙撃されて死亡した事件で夫が保険金殺人の疑いで逮捕されたものである。事件の内容は必ずしもきちんと理解してはいないのだが、アメリカで起きた事件ではあるが日本で裁判が起こされ、地方裁判所では無期懲役、高等裁判所では無罪の判決が出て、検察が上告したものの結局最高裁で無罪が確定したという経過をたどった。

 ところがつい数日前、この夫がフィリピンに旅行に行ったところいきなり27年前のロスアンゼルスでの事件を理由としてフィリピン当局に逮捕されたのである。理由は27年前の逮捕状をもととしたロス警察の要請を受け入れたものであった。

 事件当時もマスコミネタとして世間を賑わしたものだったが、またぞろ当時担当した弁護士や退職した司法関係者やいわゆる識者と称する評論家を集めてああでもない、こうでもないのマスコミの追っかけが始まった。

 私が面白いと思ったのは日本とアメリカの司法制度違いであった。両国とも一事不再理(一度司法の判断が下された事件については再び蒸し返すことはないという法的な制度)は法律として存在している。だから日本では既に最高裁で無罪が確定している以上、その後どんなに決定的な証拠が見つかったとしても改めてこの事件で裁判を繰り返すことは許されない。
 それはアメリカでも同様なのだが、アメリカではまだこれに関する裁判が行われていない以上、この一事不再理は適用されないとのことである。では裁判権はどうなっているのか。私も今度の事件での解説で始めて知ったのだか、日本は属人主義、アメリカは属地主義が刑事裁判の基礎になっていることが問題となっている。そして殺人罪には日本のような15年(または25年)という時効(四つ目の事件参照)がないということである。

 どういうことかというと、日本では日本人である以上世界のどの国で犯した犯罪であっても日本の法律を適用して裁くことができるのに対して、アメリカではアメリカ国内で犯罪が行われた場合犯人の国籍を問わずにアメリカの法制度で裁くものとされているのである。つまり今回の事件は表面的には日本人がアメリカで犯した犯罪として疑われているのであるから、日本、アメリカの双方が裁判権を持つことになるのである。
 そして日本の刑法に定める一事不再理の規定(憲法39条、刑事訴訟法337、338条)は日本国内での裁判にのみ適用されるから、日本では再審理(アメリカによる再逮捕も含めて)ができないものの、時効制度はもとより一事不再理の法理もアメリカにまで拡大することはできないのである。

 そうした法理論がはっきりしているにもかかわらず、時効は話題になっていないものの一事不再理は国際的な慣行であるなどと法律以前の理屈を弁護士などがしたり顔で語りだすのは本当に法曹界に身を置くものとしてふさわしいのだろうかと疑問を持ち、また一事不再理の限界についてもまた興味をそそられているのである。

 二つ目は裁判所の決定を無視したホテルの話題である。これも先月の話題である。日教組の全国集会の会場を引き受けた東京のホテルが、開催半年前になって突然契約を破棄してきた事案である。理由は日教組の集会には右翼団体などの街宣車の妨害が予想され、顧客や近隣の住民や店舗などの安全確保が難しいとのことである。

 日教組側は裁判所にホテルが行った契約解除の取り消しを求める仮処分を申請し、地方裁判所は表現の自由に対する妨害に当たるとして日教組の主張を認めた。ホテル側はこの決定を不服として高裁に控訴したが、高裁も地裁と同様の判断を示した。
 それにもかかわらずホテル側はその決定に従わなかったため、結局この日日教組が予定していた全国集会は開催できないことになってしまった。

 日教組は最近、開催できなかったことに対しての損害賠償を求める訴訟を提起すると言っている。まあ、裁判所の決定に従わなかったのだから賠償責任を免れることはできないとは思うけれど、それにしても「言論の自由」という大義名分と、現実に起きるかも知れない妨害行動による被害防止との兼ね合いをどう見たらいいのかは興味ある問題を示してくれている。

 裁判なのだから「回避しがたい被害の可能性」についてもまた立証及び事実の認定が必要になることであろう。立証できないような「恐れ・可能性」は結局判決に影響を与えることはないだろうし、また裁判官の判断が影響されるようなことがあってはならないだろう。
 ただそうした可能性の立証とはどういうことなのか、どこまでの認定が必要なのかは、結局裁判官の自由な心証に委ねられると言うことなのであろうか・・・。

 2月28日の朝日新聞社説はホテル側に「もう少し勇気を出したなら、広く社会の共感を呼び・・・」と書いていたけれど、こうした主張には反論しにくい正論や正義をぶつける側のどことない驕りが感じられ、ぶつれられる側にもそれなりの悩みのあることも理解を示して欲しいものだと、ふと偏屈な老税理士は感じてしまうのである。

 そして三つ目が数日前の国会議員に対する高裁判決である。北海道出身の鈴木宗男代議士が収賄や国会での偽証などで起訴され、地方裁判所で懲役3年の実刑、そして二審の東京高裁でも2月26日に一審と同様の実刑判決が下された。

 私はこの裁判の詳しい経過を知らないので、この司法判断の適否について論調することはできない。だから敗訴した側が自分の主張が認められなかったとして、その結果を「不当判決」と叫ぶのは多くの裁判でのごく当たり前の出来事だから、今回の被告人の同じような発言の意味の分からないではないし、即日上告したことも当然のことかも知れない。

 だが「起訴そのものが国策捜査によるものであり、検察と裁判所の癒着は司法の危機だ」、「新証言などを採用せず、高裁の存在意義があるか」(2月27日釧路講演、28日朝日新聞)とまで言い切ってしまうことは、いかに悔しかったとは言え三権分立の頂点の一つである国会を構成する議員の発言としては、どこか哀しいものがある。

 四つ目はつい1月31日の東京高裁の判断である。これは東京都内の小学校の女性教諭を殺害した男が26年間遺体を隠し続けた後に平成16年8月自首した事件で、遺族たる両親がこの男に損害賠償を求めたものである。

 法定刑の中に死刑を含む犯罪の刑事時効は15年とされれており(なお、平成17年の改正で現在は25年に延長されている。刑事訴訟法250条)、刑事事件としては既に時効が完成しているから刑事裁判で処罰されることはない。問題は民事事件としての損害賠償請求が可能かどうかが問題となった。

 民事上、不法行為による損害賠償請求権の時効は「被害者またはその法定代理人が損害および加害者を知りたる時より三年間、不法行為のときから20年を経過したるとき」と定められている(民法724条)。
 条文を形式的に読むならば、たとえ前段のとおり加害者を知ってから三年以内に提起された裁判であっても、後段の規定で事件から20年を経過した以上は絶対的な時効が成立していることになって損害賠償請求は認められないことになる。

 ところが東京高裁は、男が遺体を隠したことで遺族が教諭の死亡を確認できなかったという状況そのものが加害者の作り上げた原因によるものであって、そうした加害者がこの20年と言う時効の利益を受けることは著しく正義に反するからこの時効を適用しないとして多額の賠償を認めたのである。

 この判断に対しては正義の判決であるみたいな論評が多いのであるが、いまいちどこか法治国家としての枠組みからは少し視点が違っているのではないかとの思いのしないでもない。もちろん何らかの形で加害者に罰を与えたいとする感情そのものを理解できないのではないのだが、一方で「悪法もまた法なり」(ソクラテスが言った言葉だとされているが、悪法だと主張するのは多くの場合敗訴した側であることが多いだろうことも事実かも知れない)とする厳正な法解釈の背景と信頼があってこその司法制度ではないかとも心のどこかで感じているのである。

 さて司法に関する話題を面白いと言ってしまうのは不謹慎かも知れないが、こうした話題は何も刑事事件を巡るものだけではない。もう一つ五つ目に取り上げたいのは、我が税理士稼業にも係わってくる税法の解釈についての判決である。

 バブルが弾けて以来不動産神話もまた弾けてしまったから、損して売らなければならない場合もけっこう多くなってきた。ところでそうした不動産の譲渡による赤字を他の黒字の所得と相殺する制度(損益通算という)が平成16年の税制改正で駄目になった。この法律は平成16年3月26日に成立し同年4月1日から施行されたのだが、問題となったのはこの法律が16年の1月1日以降の譲渡から適用されるとしていたことにある。

 つまり法律の施行は4月1日なのだから、3月31日までに行われた譲渡所得の赤字は他の所得から控除されるべきであり、1月1日まで遡って損失の控除を認めないとしたのは遡及立法であって憲法に違反するとの主張をした事件が東京と福岡で発生した。

 訴求立法の禁止は事後法の禁止とも呼ばれ、主として刑事罰において実行の時に適法であった行為に対して、後になって刑事責任を問うことを禁止するものであり、日本では憲法で保証されている(39条)。こうした考えは刑事罰に限らず一般的に法律上の当然の原則として考えられている。それは法の安定、つまり後からひっくり返されることはないというのが国家に対する国民の信頼の基礎でもあるからである。

 ところでこの問題について東京地裁はつい先日の2月18日に「改正税法の内容はすでに公開されていて納税者には予測の可能性があった」として遡及立法にはあたらないから課税は適法であるとする判断を示した。ところが同じ問題で福岡地裁はこの判決の出る少し前の1月29日に「改正税法の内容は必ずしも納税者に周知されていたいたとは言えない」として課税を違憲無効としたのである。

 法治国家の要件としての法規、その中でもとりわけ租税法規はすべての国民が自分で計算するという申告納税制度を採用していて、しかもその申告は毎年毎年繰り返し発生するものなのだから、法律そのものが迷いのない理解しやすい内容であることが一番に求められているのではないのだろうか。
 そうした法律の解釈が裁判所で異なるというのは、三審制の下では当然のことでありいずれ最高裁で統一解釈が示されると言えるのかも知れないけれど、分かりにくい税法、当たり前と感じるような常識の通じにくい税法と言うのは、やっぱりどこか少し変なのかなとも思ってしまう。

 だからと言って、「だからこそ税理士が必要なのだ」とは決して言うまい・・・。



                          2008.2.28    佐々木利夫


            トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



いま司法が面白い