「自分探し」についてはこれまでに何度かここへ書いたことがある(別稿「
天職と自分探し」、「
再び自分探しについて」、「
自分探し再び」参照)。そうした背景には自分らしい自分をさがしてさまよう若者の姿が最近あまりにも頻繁に見えるようになつてきたからでもある。もちろんそうした若者の姿と言うのは現実に私の回りに見かける機会が多くなってきたというのではなく、テレビや新聞などの特集みたいな報道で知ったことが本音ではある。
正社員から非正規雇用と呼ばれる雇用形態へと世の中がどんどん変化していっている現実を知らないではない。そうした渦中にあってフリーターだのニートだのから抜け出そうともがいている若者の存在も知らないではない。そして自分探しの若者は、自分探しという意識だけを残したまま定職にもつかないで若者としての年齢を少しずつ越えていわゆるワーキングプァと呼ばれるグループへと陥っていく。
そうした探したい自分が見つからないともがき、憧れの自分を探そうと苦悩する若者の姿は、こんな老税理士がしたり顔でのたもうても詮無いことかも知れないけれどどこか方向が違っているのではないか、どこかに自分に対する甘えが存在しているのではないかと思えてならないのである。
それはこうした若者の自称する「自分探し」の根っこが、「自分だけで探す自分探し」という閉ざされた観念に囚われ過ぎているのではないかと思えて仕方がないことにある。
「なりたい自分」を探してさまよう姿は哲学的であるかも知れないけれど、それはどこか自分を甘えさせている姿ではないだろうか。
そう思うことの背景には、この「自分で探す自分探し」と言う意識そのものがどこか違っているのではないかと思えることにある。つまり「自分を見つけるのは自分なのか?」という単純な疑問である。
むしろ見つけるのは自分ではなくて「他人」なのではないか、他人からの評価の中に自分があるのではないかと思えるのである。
「自分探し」で果たして自分は見つかるのか、選択しなかったもう一つの自分の人生が、これまで過ごしてきた人生の終わりを迎えるときになって、「選ばなかったことが正しかったのだ」と断言できるのかと言うことでもある。迷うのが、そして確かめられないのが人生であり、それこそが「自分」なのではないだろうか。
アインシュタインを凌ぐ力が私にもあったかも知れない。ベートーベンやピカソを超えて世界を感動させるような力をもしかしたら私は持っていて、別の道を選んだならばそれを現実のものとして実現させることができたかも知れない(もちろん、虚妄の思いのままで終わってしまうことも含めて・・・)。
だとすればそうした自分を見つけられないままに、私は一介の税務職員として生涯を終わってしまうのだとしたら、その後悔は単なる後悔という単純な言葉で過ごされないものを持っている。
だが、・・・・と私は考える。社会を生きていくということは、結局自分以外の多くの他者とのかかわりの中を泳いでいくことではないのか。だとすれば、そうした社会を生きていく中での「自分」とは、とりもなおさず「他人から見た自分」なのではないだろうか。
アインシュタインだってベートーベンだって、結局他人からの評価の上に存在していたのではないかと私は思う。人はどんな場合にも完全に理解されるとは限らないけれど、時に天才と呼ばれ、偉人と称えられ、尊敬され、敬われ、賞賛される。しかしそれらはすべて他人からの評価である。
だとするなら、「自分らしい自分」とはそうした自分を評価してもらえる環境の中にあって始めて存在の意義を持つのではないだろうか。
「孤高の天才」との言葉を知らないではない。だが、それが生前はもとより死後に到っても他人にまるで評価されない能力だったとするならば、その人は果たして本当に「天才」だったのだろうか。
「自分らしい自分」の認識は結局のところ自分が評価する以外にないのではないか、との考えを無視するつもりはない。しかしながら、自分が自らの人生を自分らしい人生だったと認識するというのは、そうした自分が例えば夫婦や親子や知人や会社や地域社会などと言ったどんな小さな分母でもいいし、はたまた世界を分母とするような巨大な集団でもいいけれど、そうした特定の分母の構成員から認められているという状況に対する自己評価なのではないのだろうか。
観念的には家族や隣近所や世の中のすべてから疎まれながらも、「俺は俺にふさわしい人生を見つけた」と死の床で叫ぶことに異論はないけれど、なんだかそれはどことない屁理屈かやせ我慢であって、「自分探しで自分を見つけた」と言うこととはどこか違うような気がしてならない。
「自分探し」とは他者の中に生きていく自分を見つけることであり、他者とのかかわりの中に自分をどう位置づけていくかという自己認識になるのではないだろうか。自分の目線だけで「もっと自分にふさわしい場所がある」とさまよう状態と言うのは、まさに自分だけの評価と言う意味で客観性も正確性にも乏しい独り善がりの生き方になっているのではないのだろうか。
もちろん自分を決定するのは自分である。他人の目だけを意識し、己の意思をないがしろにして生きる人生を承認しようとは思わない。それでもやっぱり「自分の視点」のほかに「他者からの評価」という視線も加えないと正しい選択にはならないのではないだろうか。
そして極論を言うなら、私なんかは「自分の視点」と言うのは限りなく小さくしても、その人生は決して自分を裏切ることなどないのではないかと思っているのである。
2008.5.13 佐々木利夫
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