日本中に天神様がある。天神と言うからには本来は「天の神様」つまり、カミナリ様のことだとは思うのだが、実際はいわゆる学問の神様として「菅原道真」を祀った神社のことであり、受験シーズンはもとより日常的にも観光地化している場所が日本中に溢れている。
 日本にはこうした特定の人物を祀った神社がたくさんあるように聞いている。私なんぞは特に宗教に興味がないせいか、著名な神社にはそれなり出かけはするもののそれはあくまでも観光目的の一つでしかないから信者には入らないだろう。だからどんな理由で歴史上の人物が神格化されて祀られているのかなんぞは端から興味の外でもあった。

 それが丸谷才一の「忠臣蔵とは何か」と言う本だったと思うのだが、日本では戦いなどで倒した相手からの死後の報復を恐れて神として祀るケースが多いと知り、改めて日本の宗教観の背景に気づかされた記憶がある。それは「御霊信仰」(ごれいしんこう)と呼ばれて日本人の人生観と言うか世界観、歴史観の基本を作り出しているとも言われている。

 天神様としての宗教団体の中枢、つまりお寺の本山みたいなものがきちんと存在しているのかどうか寡聞にして知らないのだが、菅原道真に連なる神社のいくつかには私もそれなり参拝した記憶がある。
 きちんと理解しているわけではないけれど、九州博多の大宰府天満宮は少なくとも菅原道真の墓所でもあるから、天神様の筆頭になるのかも知れない。なんたって菅原道真はこの地に島流しにされここで没したのであり、彼の詠んだ有名な「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」の歌も、この地に流された我が身の不運を嘆き京の都へ戻りたいとの切ないまでの思いを伝えるものになっている。

 博多以外にもふらりと記憶の糸を手繰るだけで、京都の北野天満宮、東京上野の湯島天神、同じく東京江東区の亀戸(かめいど)天神などを訪ねたことが甦ってくる。京都の北野天満宮は道真が没した後に、各地で頻発した天変地異を鎮めるために新たに建立されたものだと聞いているから、もしかすると大宰府と並んで天神様を祀っている神社の双璧になっているのかも知れない。

 そのほかにもきちんと確かめたわけではないのだが、数年前に訪れた越中富山の八尾(現在は富山市に吸収されたようだが)で風の盆を見るべく車で野宿した場所が「天満橋」のすぐ脇だったから、もしかしたら近くに天神様の社があったのかも知れない。
 また昨年桜の写真を撮りに行った札幌豊平区の天神山(写真集は別稿「札幌さくら旅・平成19年」参照」もその山すそに天神の社があったから、まさに天神様は日本中に点在しているのかも知れない。一説によると「現在約20万社といわれる神社のなかで、道真を祀る天神社は一万社をはるかに越えるものと推察される」(妖の日本史、三谷茉沙夫、P144)とあるから、日本の津々浦々には天神様がひしめいているのかも知れない。

 こんなことを書いているうちに私の事務所の近くにも菅原道真が祀られているのではないかと、ふと気づいた。それは初詣としてきちんと参るほどの熱心さではないのだが、毎年正月過ぎに顔を出している事務所近くの「琴似神社」の中に合格祈願の絵馬がたくさんぶら下がっている小さな社があったような気がしたからである。
 気になったものだから、この文章を書きかけたまま確かめるためにちょっと出かけてみた。琴似神社は事務所から歩いてせいぜい2〜3分のところにある。10月は恒例の秋祭りも終わって境内は森閑としていて参拝者の姿もなく、僅かにお手伝いなのだろうか三人ばかりの女性が箒を持って落葉を掻き集めているのみであった。正面奥に神社の正殿を見てその左手に小さな社がある。覗いてみるとまさに天神様であった。「御門山琴似天満宮」(みかどやまことにてんまんぐう)との山号があってまさに道真が合祀されていたのであった。社の奥には古びた等身大に近い木板の彫像が祀られていた。これがご神体菅原道真像なのだろうか。

 菅原道真は幼い頃から文才に優れ、醍醐天皇の即位(897年)とともに54歳で右大臣に任ぜられたとされるほどにも天才の名をほしいままにしたようである。だがその異例の出世は多くの同僚などの反感を買ったばかりか、時の左大臣(右大臣よりは格が上である)藤原時平の画策もあって、孤立無援の中で右大臣就任後2年にして何の実権も持たない「太宰権帥」(だざいごんのそつ)として九州へと左遷(実質は配流だとの説もある)させられることになる。そして赴任三年後に京の都に残してきた梅に思いを馳せながら上記の歌を残して58歳の生涯を閉じることになる。

 天変地異が始まったのはこの後からである。道真が没した5年後、京では彼の左遷に力を貸したとされる男が病死し、それから毎年のように旱魃と流行り病の蔓延が続く。そして道真失脚を画策した張本人である左大臣時平の死、更には道真の後任として右大臣になった時平の弟である源光(みなもとのひかる)の死へと凶事は続く。京へ戻れぬ恨みを残したまま死んだ道真の怨霊がそれらの原因であるとの噂が京を巡るのにそれほどの時は必要なかったようである。
 道真の配流の恨みは止まるところを知らない。死後20年を経てもなお、皇太子の不審な夭折や打ち続く旱魃や疫病はすべて道真の巨大な怨念によるものだと当時の人々は信じたようである。日本中が道真怨霊に震撼していたことは、朝廷そのものが死んでいるにもかかわらず改めて道真を右大臣に復権させていることからも窺うことができる(道真没後の話は前掲書「妖の日本史」を参照にした)。

 この時代、恨みを持つ者の力が災厄を招くとの思いは世の中にはびこっていたのかも知れない。それは例えば源氏物語でも六条御息所が物の怪として他人を死に追いやる話や(別稿「六条御息所」参照)、光源氏が朧月夜との不倫の発覚で須磨へ流される話でも、都に多発した地震やカミナリなどの災害が源氏をないがしろにしたためだとの噂が広がり、再び源氏をして京へ呼び戻す力になったことなどとも共通しているし(別稿「朧月夜の君」参照)、恨みが死してもなお特別な力を持つと信じられていたことは先に述べた御霊信仰の背景になっているのかも知れない。

 道真の恨みだけが天神信仰を支える背景にあったとは断言できないだろうけれど、彼がいかに学問の神様として信仰の対象になったとしても、そうした学問崇拝がこれほどの数の天神社を作り上げた原点に存在しているとは考えにくい。やはり「恨みの怨霊」から「崇拝の御霊(みたま)」への変遷には「怨霊の祟りを鎮めるための場」としての意識が朝廷のみならず人々にも存在しており、そうした結果としてこの天神社、そして天神信仰が生き残ったと考える方が妥当しているのではないだろうか。
 それは恐らく憎しみを自らの力では解決できない虐げられた人々の思いが、「死んで恨み晴らす」ことの中に僅かにもしろ救いを求めたことの表れなのかも知れない。それだけ人は他人への恨みの積み重ねの中に自らをひっそりと押し込め、死後にその報復の叶うだろうことを力として生き延びてきたと言うことなのであろうか。



                                     2008.10.10    佐々木利夫


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天神様と日本人