なかなかきちんとした立証は国際的にも難しいらしく、学者も含めて世界中の意見が一致しているとは必ずしも言えないのかも知れないが、地球温暖化が地球の存続そのものを脅かしていることは間違いのない事実のようである。1997年12月11日、国連は「気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書」(いわゆる京都議定書)を掲げ、世界の温暖化ガス(二酸化炭素、メタン、フロンなど)を2008年から2012年の5年間に基準年度1990年から少なくとも5%削減することで合意した。この条約はいくつかの加盟国の批准を得て2005年2月に発効し日本は6%削減を約束した。だがそれが実現することはなく、結果として逆に増加に転じているなど、各国とも宣言と効果とは必ずしも一致していない。

 だが温室効果ガスを世界的に削減していかないと、このままでは地球の将来が手遅れになるかも知れないところまで来ているのは事実のようであり、京都議定書の期限である2012年以後をどうするかに向けた世界的な合意作りが新しく求められている。ただ相変わらず政治と言うのは身勝手なもので、先進国は世界共通して一緒に削減しましょうと言い、後進国はここまで汚染させたのは先進国による経済優先政策のせいなのだからまず先進国こそが先に手本を示すべきだとの主張を変えようとしない。

 どの国も自国の経済発展が第一と主張するするのみで、国際的な合意など遠い彼方である。温室効果ガスの問題は今や時間との戦いになっているにもかかわらず、「自国以外は他人事」みたいな行動ばかりが目立っている。
 しかも例えば北極圏を取り巻く諸国などでは、温暖化によって今まで厚い氷に覆われていた海面や陸地が表われてきたことから新たな資源開発や農業拡大のビジネスチャンスと捉えるなど、逆に温暖化を歓迎するような風潮さえ発生してきている。

 地球温暖化については、すでに「私たちの抱く自然とは、人間が住めるように開発された以降の懐かしき昔の風景のことなのか」(別稿「環境問題と正論」、参照)、「飽食と平和とは矛盾しないのか」(別稿「物のあふれている時代」、参照)、「廃棄することとエコ製品普及の矛盾」(別稿「地球温暖化は言葉が変だ」、参照)などをテーマにして私もここへ発表してきたけれど、現在日本が進んでいる方向にはどこかすっきりこないものがある。

 ともあれ日本もどうやら本腰を入れる様子がうかがえ、最近麻生総理大臣による温暖化対策に向けた演説があった(6.10)。それによると2020年までの中期目標として2005年比マイナス15%が掲げられた。
 ただこうした目標に連なる国民へ示した具体策の中にはどうも割り切れないものがいくつか見られる。その一つにエコカーへの切り替えがある。ハイブリッドカーにしろ電気自動車にしろ、ガソリンから電気への切り替えがいわゆる「エコ」だとの理屈である。つまりエンジンを電動にすることによって、ガソリンから出る二酸化炭素などの排出がゼロになるからそれが「エコだ」、「エコだ」というわけである。そして政府はこのエコカーに対して自動車重量税や取得税の減免や補助金を支給するなど、一台あたり数十万円もの金額を購入者に助成する制度を設けた。

 でもそこんところが私にはどうにも解せないのである。例えば対象とされるエコカーが酸素と水素の化学反応によるエネルギーを動力源とするいわゆる水素エンジンを搭載しているのなら、この装置による排気ガスは原理的には水蒸気だけだから「自動車による排気ガス問題」は一挙に解決する。車社会におけるガソリンによる廃棄ガスは温暖化問題の中で大きなウエイトを占めているから、少なくとも車に関してはこれを「究極のエコ」と呼んでいいのかも知れない。

 だが今回話題になっているエコカーと言うのは水素自動車ではなく、電気自動車もしくはガソリンと電気を組み合わせたハイブリッド車である(ただハイブリッド車はガソリン車と電気自動車の中間に位置しているから、電気自動車について話すことで足りるだろう)。

 私が思うのは電気自動車そのものの宣伝文句の中に、どうして「温暖化ガスの排出ゼロ」がうたい文句として出てくるのだろうかとの疑問である。確かに車そのものは蓄電池からの電力を利用して走行するのだから排出ガスはゼロである。そのことに異論はない。
 だが、燃料をガソリンから電気に代えること自体を温暖化ガスゼロとして評価できるのだと言うのなら、テレビも冷蔵庫もエアコンも、世の中のあらゆる電化製品はすべて排気ガスゼロでありエコ製品だ、と言うことになってしまうのではないだろうか。

 さて、これとは別に政府はエコポイント制度をこの4月から導入した。地デジ対応のテレビや省エネタイプの冷蔵庫やエアコンを買うと税金から一定のポイントを購入者に還元し、そのポイントを使って新たな買い物ができると言う制度である。
 ところでこのエコポイント制度の目的は「省エネ」つまり「省電力」にある。デジタルテレビや最近の冷蔵庫やエアコンは、性能が同じでも旧来品に比べて電力消費量小さくなっているので、その分エコになるとのことである。ここでは電化製品の電力消費量の差にエコを見ようとしているのであり、旧来型の製品がまだ使用できるにもかかわらず新しい製品を買い換えることの無駄に関しては考えないという片手落ちもあるがここでは触れないでおこう。

 だが電気店の店頭で見る限り、家庭用としては似つかわしくないほどにも大型のテレビがこれ見よがしに陳列棚を飾っている。テレビを見ない、つまりテレビを捨てる生活のほうが一番のエコになるのだろうが、それは無理だとしても、大型を買うほうがより高いエコポイントが得られるというシステムには大型になるほど消費電力が大きいであろうことを考えると、そこにもエコからの乖離があるような気がしてならない。

 ともあれエコポイントの発想はエコカーの理屈とはまるで異質である。エコカーとは極端に言えば電気自動車のことである。ならばその電気はどうやって車のエネルギーとすることができるのか。蓄電池からの供給である。そして蓄電池への蓄電は家庭用電源もしくは専用スタンドからの急速充電による供給になる。つまり電気自動車はテレビと同じように、発電所から電線を伝わってきた電気を使って動くのである。

 電気自動車もエコタイプのテレビも、つまるところ電気を使って動くのである。電気自動車だからと言って、その動力源を温暖化ガスを出すことのない特別な自家発電装置によって得るのではない。つまるところ、車もテレビも同じ発電所からの電気によって動くということである。

 ならばエコカーはなぜエコと言われ、しかも「排気ガスゼロ」のメッセージが強調されるのだろうか。裏付けるデータが示されていないので分からないけれど、ガソリンから排出される温暖化ガスよりも発電による温暖化ガスの排出の方が少ないのかも知れない。もしそのことが事実であり、そのことがエコにつながるのだと言うのなら、その事実をきちんと説明すべきである。「電気自動車は排気ガスを出しません。だからエコなのです」と言うこととはまるで意味が違うと思うからである。

 もちろん発電による排出ガスの問題は、発電所の数が限られているから一まとめにして何らかの対策を考えやすいとの意味はあるかも知れない。テレビの台数だけエコを国民に要求するよりは、少しでも省エネタイプのテレビの普及に努めて、それとは別に発電所の持っている煙突にしぼった排出ガス対策を考えることも有効な方法であるかも知れないからである。だが、その理屈が通るのだとしたら、車にだって同じ理屈が適用されていいのではないだろうか。煙突から出る二酸化炭素をどうにかしてゼロに出来たなら、少なくとも発電に関する対策は満足できるからである。

 更にへそ曲がりはこんなことも考える。私は8年ほど前にマイカーを処分し、事務所への往復はもちろんのこと仕事の得意先回りや仲間との飲み会の会場へも可能な限り歩くことにしている。別に地球環境に配慮する意気込みで車を処分したわけではないけれど、考えて見ればガソリンゼロの生活を続けているのだからエコカーに買い換えるよりはずっとずっと地球環境に貢献していることになる。私だけでなく世の中には恐らくマイカーなど一度も持ったことはないという人だっていることだろうし、マイカーと決別した人も多いだろう。そうした人たちこそがエコカーへの買換えをする人たちよりも、更にエコに貢献していることになるのではないのだろうか。だがこうした貢献に対してはなんの補助金や謝礼金や公共交通料金の割引などと言った恩恵がないのはどこか変である。

 エコへの要求は多くの家庭生活にも及んできている。小まめに電気を消すとか、マイはしを使うとか、スーパーのレジ袋をマイバックに代えるなど、日常的な節電や省エネへの協力の要求が広がってきている。そうした「チリも積もれば山となる」みたいな発想を否定はしないけれど、例えば先日の夏至の日の「電灯を消してローソクを灯してエコを考えよう」運動みたいなものを見ると、大量のローソクの燃焼はむしろエコに逆行しているのではないかとさえ思ってしまう。
 しかも、そうした「ちんまりとしたエコ活動」みたいなものに人々が満足してそこで止まってしまうような危惧さえ抱かせられる。そうした満足はもしかしたら、もしかしたらエコ活動なんかなんにもしないで、買換えなし、車なし、エアコンなしなどでつつましい生活をしている人よりももっと罪深いのではないだろうかとも思えてしまうのである。

 一説によれば地球環境をまともに守るためには、2050年までに温暖化ガスを少なくとも現在の50%以上削減する必要があり、日本では更に60〜80%の削減が必要だとも言われている。京都議定書どころかその宣言に逆行する排出量増加を実践してしまった日本人である。そんなまめに電気を消すことや夏至にローソクを灯すような生半可なエコ活動、そしてエコカーやエコポイントくらいで、我々は果たして地球温暖化を食い止めることができるのだろうか。

 無秩序なエネルギー消費にすっかり馴れきった我々である。果たして低炭素社会へと、世界はまともに、真剣に、迷わずに、向かっていけるのだろうか。もちろん「一国だけではできない」ことは事実だろう。だがそれぞれの国の思考がそこのところで止まってしまうことの方がもっと恐ろしいような気がしてならないのである。



                                     2009.6.27    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



エコへの短絡