天気予報についてはこれまで何度もへそ曲がりじみた意見をここへ書いてきた(別稿「天気予報は予報を諦めた」、「天気予報と謙虚」、「垂れ流しの警報・注意報」など)。それは必ずしも天気予報が外れることに関して批判をしたものではない。「予報」なんだから、どんなに精度を高めたところで当たり外れの出ることは当然だと思えるからである。
 もちろん天気予報が、その信頼性ゆえに存在価値があることを否定はしない。仮に予報がまるで当たらないことの連続だったなら、天気予報が仮にシステムとして存在していたとしてもすべての人たちから無視されてしまうだろうからである。

 とは言え予報はあくまで予報である。精度を高めていくことと外れる予報の存在とが矛盾することはない。
 でも、でもである。今の天気予報は新聞やラジオやテレビを通じて毎日のように報道されているけれど、そこに表われる情報がなんだか天気予報本来の姿からどんどん乖離していっているような気がしてならないのである。

 そう感じ始めた最初のきっかけは、あちこちで流される天気予報の内容にあまりにも変化のないことからであった。天気予報はラジオでもテレビでも、今ではインターネットでも日常的に放送されており、特にテレビでは数あるチャンネルそれぞれにそれぞれ専用の時間枠やスタッフを設けているから、比較的目に止まる機会が多い。
 天気予報だから普通は自分の住んでいる地域の明日の天気が気になる程度でそれほど熱心に番組全体を最初から最後まで熱心に見ていることはまずない。それはそうなんだが、ある日ふと気づいたのである。天気予報ってのは、放送しているアナウンサーというのかそれとも最近流行りの気象予報士なのか必ずしも区別がつかないのだが、話す人は様々であるにもかかわらず話してる内容がまるっきり同じであるような気がしたのである。

 もちろんテーマは例えば「明日の札幌の天気」である。そのことを予報しようとしているのだから、それがチャンネルを切り替えるたびに雨であったり風であったり、時には晴れたり雪だったりなどと放送している局なりスタッフによってくるくる変わってしまうようでは困る。そんな当てにならない内容では、まさに予報の意味がないからである。「明日の朝の札幌の天気」は、その予報が当たるかどうかはともかくとして一つしかないはずだから、あるチャンネルでの予報が雨だったら、他の局の予報でも同じように雨でなければ困るだろう。まあ、局ごとに独自の予報を出して互いにその正確性を競わせ、視聴率稼ぎに結びつけるようなゲームもそれなり楽しいとは思えるけれど・・・。

 だから予報が共通していることはいいのだが、各局のスタッフの話しぶりや予報内容などが細かい点まで、時には言葉遣いまでがほとんど同じであることに気づいたのである。それはそれでいいのではないかと思うかも知れない。予報が当たるかどうかはともかくとしてバラバラな内容では困ると言うのなら、同じような予報だからと言って批判するのはおかしいと思うかも知れない。だが、まるで判で押したかのように丸っきり同じ表現と言うのもどこか変である。変でないかも知れないけれど一字一句違わないような表現での予報と言うのはやっぱりなんか変である。

 そして思ったのである。これはきっと気象庁の発表をそのまま読み上げているのではないか、そんな風に思ったのである。だからと言ってそのことが変だと言うのではない。気象予報のデータは気象庁が収集して分析し明日の天気として発表しているのだから、それをそのまま視聴者に知らせることに何の不自然さもない。それでも私はこの金太郎飴のような同じ切り口による放送に、どこか違和感が残ったのである。
 つまり、それならわざわざ例えば「お天気お姉さん」みたいなスタッフを専門的に設ける必要などないのではないかと言うことである。こんな言い方をするといかにも戦争経験者みたいに聞こえるかも知れないけれど、天気予報も「大本営発表よると明日の天気は・・・」みたいにニュース調に無機質に伝達すれば足りるのではないかと思ったからである。

 そうした国の情報を伝達するだけなら、わざわざ「気象予報士」などと言う国家資格を設け、しかもその資格を表示するようなスタッフを選定することそのものが矛盾することになるのではないだろうか。この資格はけっこう人気が高いようで、合格が難しいとされながらも受験者が多いと聞いている。
 もちろん気象予報士の資格はテレビの天気予報番組に出演するためにだけ存在しているのではない。テレビ以外にも気象の予報を商売として、例えばスーパーの弁当やビールやアイスクリームなどの天候に支配され易い商品の販売予測であるとか、運動会などの行事の計画予測などに有料で情報提供をすることもできるとされている。だからそうした意味では気象予報士の存在に意味がないとは言えないだろう。

 だが、少なくとも毎日の天気予報だけを見る限り、気象予報士はどのチャンネルでも同じ内容しか伝えていないのである。それはもしかしたらマスコミを通じた公共的な天気予報というのは、気象庁などの公権力から伝えられた情報以外の内容を伝達することは禁止されているのかも知れない。気象予報士が勝手に暴風警報や洪水警報を出すなどし始めたら、国民を始め防災担当などの様々なセクションが大混乱に陥ることは必至だろうから、勝手な報道が許されないことが分からないではない。
 しかし、天気予報に気象予報士としての意見がまるで反映していないかに見える放送と言うのもまた、そうした資格者の存在とどうしても矛盾する。

 さてさて、そこで私の思いである。そんな矛盾に気象予報士自身が気づいてきているのではないだろうか。そしてどうにかして天気予報に自身のオリジナルを出したいと考え始めたのではないのだろうか。しかも一方で予報そのものは発信内容が気象庁の発表を超えることがないように規制されている。そこで予報士は、気象周辺の話題に独自性を求めるしかないと考えたのではないだろうか。だからまるでこれでもか、これでもかとでも言うように、天気予報番組はダイレクトな予報以外の関連情報を、視聴者の関心とは無関係にやたらと氾濫させるようになってきたのではないだろうか。

 天気予報と言うのは、旅行に行く先であるとか、例えば遠くに住んでいる孫の運動会が気になるなどと言う場合もあるだろうけれど、多くは自分の住んでいる地域の情報を求めるものであろう。今日午後から出かけるが傘を持っていった方がいいのかどうか、寒くなるなら厚着して出かけたほうがいいのかなど、我が身や家族などの行動に関心があって、その対策のための予報情報の要求だと思うのである。

 だが、なんと余計なお世話だと思えるような関連情報が氾濫していることか。「お洗濯日和です」と言う。私も時に洗濯をすることがあるけれど、だからと言ってその日の天候によって決めたことなど皆無である。「青空のそよ風のもと、真っ白に洗い上げた洗濯物を戸外にぶら下げるエプロン姿の新妻」なんてのは、洗剤メーカーが作り上げた洗濯への幻想なのではないだろうか。私にはそんなコマーシャルのイメージに気象予報士が影響され過ぎているのではないかと思えてならないのである。

 節季の話題もまた頻繁である。立秋、啓蟄(けいちつ)、大寒などなど、それらは北海道とはまるで無縁の季語である。俳句を作ろうとするならともかく、私たちは節季で日常の生活を実感しているわけではない。「〇〇山に傘雲がかかったら雨」なんて、もっともらしく予報担当者は語るけれど、天気はその地方地方の言い伝えでもある。九州のある地方で西風が吹いたら雨だと古老が話しているとの民間伝承を、さも訳知り顔に北海道で紹介したところでそのことに何の意味があるのだろうか。ましてやそうした話題が海外の言い伝えや諺にまで及ぶにいたっては、やり過ぎを超えて迷惑でもある。春先に吹く冷たい嵐を「春一番」と言うとしたところで、それがまだ雪の舞う吹雪の北海道とどんな関係があるのだろうか。また「イギリスのある地方では春一番に似た現象にこんな名前をつけています」みたいな話しをひけらかしたところで、それが今日や明日の天気予報とどんな関係があると言うのだろうか。

 北海道もいよいよ冬本番となり、つい先日には北海道中がこの冬始めての真冬日(その日の最高気温もマイナスになること)になった。これはそんな寒さの続く中での予報に出てきた話題の一つである。「気温がマイナス30度になるとウォッカが凍ります。マイナス35度になるとバナナで釘が打てます」。さて、果たしてこの天気予報の担当者は、気象予報士として視聴者にこのデータから一体何を伝えたかったのだろうか。
 私ならたとえそれが札幌から遠く離れた稚内の天気であろうとも、または隣町の小さな小学校の運動会などのような仮に多くの視聴者と無関係な情報であろうとも、「明日の〇〇中学校の遠足は晴れるでしょうか」に連なるような、身近な話題にするだろうと思うのである。そしてそうした身近な情報を提供することこそが気象予報士としての大切な仕事の一つでもあるのではないかと思うのである。百科事典を調べて天気に関する海外の情報を集めたり、晴れるから洗濯せよなどと訳知り顔に押し付けるなどはもううんざりである。今の天気予報に出てくる関連情報の氾濫は、まさに「小さな親切、大きなお世話」そのものではないかと私はどこかで頑なに思い込んでいるのである。



                                     2009.12.17    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



天気予報・余計なお世話