ほとんど毎日のように自宅から事務所のある琴似まで歩いていることは、これまでに何度もここへ書いた(別稿「発寒川あれこれ」参照。コースは微妙に違うこともあるけれど、始点と終点は始めから決まっているので、いかにウォーキングが目的の一つになっているとは言え、わざわざ遠回りするようなことは滅多にない。

 したがって同じようなコースの繰り返しが日課になっている。そして事務所が近づくとそのコースをほぼ直角に横切るように発寒川(正しくは琴似発寒川<ことにはっさむがわ>、新川水系二級河川)が流れている。札幌を大雑把に眺めるなら北に向かって石狩湾を望む海が開けており、南から西方向へ向かって定山渓から小樽へと連なる山波が壁のように隔てている。壁と言っても手稲山(標高1023m)、藻岩山(同531m)、無意根山(同1464m)などなどそれほど高い山が連なっているわけではないが、それでも平野の一角をせき止めるように閉ざしている。そして残る開放されている東方面へと平野が北海道の真ん中方面へと広がっており、これが石狩平野の概要である。

 札幌市内を流れる川のほとんどは、これらの山々を源流としやがて海へと続いていると言ってよい。私の事務所のある琴似地区も自宅のある発寒地区も、石狩平野という感覚で捉えるなら南西のはじっこ、つまり山にへばりつくような位置にあるから、発寒川も数キロ先に稜線を見せている山々からの流れを集めたものになるだろう。雨が降るとすぐに水量が増え流れも濁ってくるので、源流がそれほど遠くないであろうことは目の前の川の色を見るだけで知ることができる。

 横切らないと事務所へ着くことはできないのだから、橋を渡る毎日の行為にそれほど感激を抱くほどのことはない。それはそうなんだが、毎日毎日こうして川を眺めながら歩いているというのは、それがたとえ通勤に伴う必然であるにしても、もしかしたらとても贅沢な経験なのかも知れないと思うことがある。
 それは単に川の姿などほとんど見ることなく過ごしている人たちが大勢いるであろうこととの対比のみならず、川を眺めるというそのこと自体に、とても豊かな思いが詰まっているように思えるからである。

 春は、川面に張った氷やその上に積もった雪のすき間を縫って流れ始める黒線の蛇行から始まる。やがて小さな緑がかすかに景色を煙らせるようになって、そのままぐんぐんとその色を濃くしていく。遠くの山並みには雪がまだしっかりと残されているにもかかわらず、橋の下の流れはいつの間にか水かさを増し濁り始めてくる。それは遠くで始まったであろう雪融けの知らせでもある。

 ふと気づくと流れはいつの間にか澄んできて、両岸を削るように洗っていた水かさも少しずつ弱くなってきている。山は知らぬ間に緑一色に彩られ、穏やかな流れは初夏の訪れを柔らかに確かめさせてくれる季節になっていることを教えてくれる。そんな景色にいつの間にか橋の上をいつもよりゆっくりと歩いている自分に気づく。水面のさざなみにも、岸辺を洗う優しい流れにも、そして上流へと視線を移した稜線の連なりにも、・・・。
 その景色は昨日とほとんど違わないのだろうが、それでも季節が夏へと近づいていることを改めて教えてくれる。せいぜいが数10メートルの小さな橋である。ゆっくり歩いても数分ほどの僅かな時間ではあるが、時に立ち止まって流れに目をやっている自分に気づくことがある。

 悠久の大河のような包容力こそ感じることのない小さな流れではあるけれど、それでも遠くの山々の小さなせせらぎをここまで集めたであろう情感くらいはしみじみと伝えてくれる。
 ここしばらくは水かさの増えるような雨の日がなかったようなので、流れはいつになく澄んだままの毎日を見せている。見渡す山も岸辺の木々も、緑はいつの間にか萌黄から変化している。濃い緑、黒い緑へと変わるのも間もないことだろうし、岸辺のポプラが綿毛を吐き出すようになるのもそれほど遠い先ではないだろう(別稿「ポプラ幻想」、「アカシヤのある川辺」参照)。

 こうして毎日見慣れた流れは、時に流れそのものの存在さえ感じないまま通り過ぎてしまうこともあるけれど、考えてみると水辺の風景を当たり前に見ている生活と言うのは、もしかしたらとても贅沢なのかも知れないと感じることがある。
 もちろん流れを見ることだけに特別な意味があるとは必ずしも言えないだろう。サラリーマンが毎日のバスや電車で通う通勤風景の中にも、専業主婦が窓越しに眺める庭の景色の中にだって、それぞれに様々な思いを伝えるものがきっと含まれているだろうからである。

 ただそれにもかかわらず私にはこうした水辺の景色に触れる毎日が、とてもいとおしく感じられるのである。川のある風景には余人には味わえないような特別な情感を伝えてくれる、そんな贅沢が含まれているような気がしてくるのである。
 私が横切る界隈の発寒川の両岸には遊歩道が設置されている。少し遠回りにはなるけれど、晴れた日には自宅からまっすぐ川へと向かい、岸辺へ降りて遊歩道を上流へと辿るコースを選ぶこともある。時に釣り人の姿を眺めながらのゆっくりとした贅沢な散策路であり、通勤路でもある。



                                     2010.6.15    佐々木利夫


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発寒川夏景色