雑文ながらエッセイと自ら評して700本近くも発表していると、色々な方々から意見をいただく機会がある。時に相談だったり意見だったり、時に論文まがいの作品に対する引用許可を求めるものだったりと内容も多様だが、それもこれもこうしたホームページを作っている楽しみの一つである。
ところで最近「とちの実がなってます」とのタイトルで見知らぬアドレスからのメールが入った。見知らぬアドレスというのは、どちらかというと出会い系サイトなどいささか胡散臭いものが多く、加えてそうした発信者不明のメールには変なウイルスが仕込まれている危険性があるなどの風評もあることから、「迷惑メール」に分類して開かないまま削除してしまうことが多い。
とは言っても短いタイトルながら「とちの実」の文字は出会い系の言葉としては異質だし、どうも気になる。それに一年以上も前になるけれど、「札幌で生まれて始めてとちの木の花を見た」とのエッセイをここへ発表したことが記憶の淵から這い上がってきて(別稿「
とちの木との出会い」参照)、そこにとちの実ってどんなのだろう、手にとって見たいと書いたことをふと思い出した。もしかしたらそのエッセイを読んだ人からのメッセージかも知れない。
恐る恐る開いたメールの内容はまさにタイトルと同じ「とちの実がなっています」との知らせだったのである。「
とちの実ですが、札幌の北10条西23丁目のどんぐり公園の前の木に実がなっています」、見知らぬ人からのメールには短くこんなメッセージが書かれていた。
確かに私は先のエッセイで「とちの実を手にとって見たい」と書いたけれど、その後書いたことなどすっかり忘れてしまっていて、それを書いた年の秋にも、そのまた翌年の今年の秋にもその気になれば花を見た場所は知っているのだから行けたはずなのに行かなかったのである。まるで思い出さなかった、気にかけてすらいなかったのである。
そこへ突然のメールである。とたんにその時の気持ちが甦ってきた。10月に入ったばかりだし仕事もそれほど忙しくはない。一人で過ごしている事務所兼用の秘密の基地は、狭いながらも一人天下のホワイトハウスである。しかもなんとなく見ていたテレビの天気予報はなんと明日の札幌は一日中快晴だと知らせているではないか。既に薄手のコートに衣替えはしており、汗だくだったあの猛暑は過ぎ去ってむしろ歩くには快適な十月の入り口である。「出かけて見ようか」、突然そんな思いが頭をよぎる。
しかも札幌は街が碁盤の目になっているから、条丁目が分かれば位置はおろかそこまでの距離や経路さえも容易に知ることができる。そして碁盤の目であることは四辻が多いこと、つまり交差点が多くなるとの欠点も指摘されているけれど、多くの交差点には交通信号がついていてその信号のすぐ下には住所を表示した札が下がっているので、逆に目的地への到達がたやすいという便利さもある。
さて私の事務所は「琴似」地区なので、条丁目の情報だけからではどんぐり公園の方向が分かるわけではない。早速ネットで地図検索にかかる。すると自宅から事務所までの徒歩通勤コースからは若干外れるものの、事務所からなら歩いて10数分、ゆっくり歩いても20分とはかからないだろう位置にあると分かった。私の毎日の通勤経路は、自宅から線路沿いに30数分歩いたJR駅二つ目の琴似、そこから直角に15分ほど歩いた西区役所の近くである(別稿「
62本のナナカマド」、「
発寒川あれこれ」参照)。もちろん実際の通勤は「三角形の二辺の和は他の一辺よりも長い」ことを実践すべく、直角を利用しないで可能な限り斜辺を使うようにしてはいるのだが・・・。
そしてどんぐり公園が琴似駅から次の桑園駅へと向かう中途の一角だと言うことも分かった。遠回りながら通勤経路を少し延ばすだけで「わざわざ」と言うほどの距離でもなく歩いていける近さである。そして天気予報の快晴情報もあって俄然その気が高まり、メールを受け取った翌日に早速出かけることにした。
翌日は土曜日だったが土曜・日曜も秘密の基地への日参は欠かさないようにしているので、いつもの時刻通りに家を出る。初めての場所だったけれど、それほど迷うことなくどうやらどんぐり公園へと着くことができた。午前中の公園にまだ人影は少なく、手作りらしい小さな凧の糸を引っ張って走る小さな女の子とお父さん連れが一組だけであった。
ところで公園に到着してハタと困惑した。昨年夏確かにとちの木を見たのだが、花に気をとられていたせいか大木のイメージはあるものの木肌や葉の形なども含めてとちの木そのものの記憶が欠落してしまっているのである。公園をゆっくり一回りする。これは木肌から見て多分プラタナス(すずかけ)、この木は葉が松らしいから違うだろう・・・。
公園の中にはどうもとちの木は見当たらないようだ。ふとメールには「23丁目のどんぐり公園の前」と書いてあったことを思い出す。公園そのものは22丁目なので、隣接している地域の街路樹かも知れない。そうは言ってもとちの木そのものをきちんと覚えていないのだから、無手勝流での探索はいささか心もとない限りである。だが昨年のエッセイにとちの木の実は「栗に似ている」と書いたこと、ネットから引用した写真を貼り付けたことがかすかな記憶として残っている。探索方法を見上げることから地面に目を凝らす方針へと変更することにしよう。
あった、あった。まさに栗のような実がとげとげのイガをなくしたつるりとした皮に半分ほど包まれて一つ、二つ見つかったのである(タイトル横の写真参照)。これで目的達成である。一年数か月を要して、私はどうやらとちの木への思いを遂げたのである。拾った実をポケットに入れ、朝日の余韻がまだ残っている街並みを事務所へと向かう。
だが歩きながら考えた。どこかまだ忘れものをしているような気がしてならない。そうだ、実の始末である。ポケットに入っているそれなり努力して得た収穫を、事務所の生ゴミとしてあっさり始末してしまうのはどこか中途半端なような気がする。苦いとの情報は得ているが、飢饉の時には大切な食料になったとも聞いている。その実を味わうところまで付き合ってやるのがとちの木との出会いに対する礼儀ではないのか。
中途半端でなく苦いらしい。この実を食するには十分な灰汁抜きが必要だとネットで読んだ。どうしたら灰汁抜きができるのかきちんとは知らないけれど、わらびやふきなど多くの山菜は水に晒しておくのが一般的だろう。どうせこの実を昼食の代用にしようと思っているわけではないのだから、一口でもいいから味わってみることにしよう。
直径2センチほどの小さい実だが、生のままの皮はけっこう硬くすんなりとは剥けてこない。それでもテーブルの鉛筆立てに差してあった小さなペンチ様のもの(ニッパーとも呼ぶのかもで知れない)で無理やり削ぐように皮をむしりとる。さて乱暴な扱いで半分ほどになってしまった裸の実を小さく砕いて小どんぶりに水を張った中に一晩つけておくことにした。
そして翌日、味を試すのは昼からにしよう。もし仮に余りの苦さに口が昼食を受け付けないようなってしまっては困るからである。灰汁抜きをした(つもりの)欠片とさっき半分ほど皮をむいたまだ灰汁抜きをしていない実一個とを小さな鍋に入れてガスにかける。煮上がる時間は不明だが2〜3分もあれば十分だろう。煮汁を捨てて中味を小皿に移し机の上へ運ぶ。まず、少しは苦さが軽いだろう灰汁抜きした小片(もしかしたらきちんと灰汁抜きができて栗と同じようになっているかもしれないではないか)を恐る恐る口に入れる。
始めて「ふぐ」を口にした人間ってどんな気持ちだっただろう。「なまこ」だってそうだろうし、もしかしたら「みみず」や「なめくじ」だって試しに口にした人間はきっといたはずだ・・・。などと余計な思いが頭をよぎる。それに食料にしたとの記録があるくらいだから毒は含まれていないだろう。飲み込まず味わうだけにしよう、唾がたまっても決して喉から下には入れないぞ、といささか悲愴な覚悟である。
うん、苦さは伝わってこないぞ、口ざわりは少し粉っぽくまさに栗の食感に似ている。もしかしたら灰汁抜きが上手くいったので残りも食べられるかも知れない。そう思って次の灰汁抜きのしていなかった実を一口かじる。これもすぐにはなんの変化もない。香りもないし特別な味もしてこない。やわらかく上手く煮えて舌触りも悪くはない。
舌というか口中への反応は1分ほど経ってからだった。詳しくは書かない。まさに「口が曲がるほど苦さ」を我が身で確かめることになったのである。これで拾ってきたとちの実の行き先は、なんの未練も残さすことなく当初の目論見どおり生ゴミへの道をたどることなったのであった。
事件と言うほどのことではなかったけれど、これで十分にとちの木を我が身のものとすることができたのである。我が人生に感動を与えるほどの出来事ではなかったけれど、どこかですとんと納得できる小さな何かを私に与えてくれたのである。メールで知らせてくれた人がどんな人なのか私に知る由もないけれど、小さな満足みたいな記憶を私に与えてくれたことを感謝したい。少し豊かな気持ちになれたような、そんな思いがしている。
さて、実を処分しこの文章を書き終えても未だ少し心残りがあることに気づいた。とち餅である。恐らく餅菓子になっているのだろうから甘くておいしくて、苦さなんかはすっかり消えていることだろう。とち餅を味わうことなしにとちの木を征服したなどとは言えないのではないか。そんな気がちらりと頭を掠める。
もちろんネットで製造元や販売店などを探して注文することはできるだろう。だがそれではとりあえず私の中にあるとちの木のイメージからは離れてしまう。それにもしかしたらこれを読んだ読者がある日突然にとち餅を持参して事務所を訪ねてきてくれるかも知れないではないか。その方がどことなくとちの木に抱いている私のイメージを壊さないですむことになるような気がする。・・・とは言え、まさかにそんなことはないだろう・・・。
これは私のとちの木のささやかな始末記である。
2010.10.7 佐々木利夫
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