祈りについてはこれまでも何度かここへ書いたことがある(別稿「祈りのある人生」、「『ガン再発』への決断と精神論」、「神に嫌われた人々」参照)。祈りというのを神殿に手を合わせ、紐のついた大きな鈴をガラガラと鳴らし、お賽銭を入れて「家内安全・商売繁盛」を心の中でつぶやくことを言うのなら、私にも祈りの経験がないわけではない。そして祈りとは信仰と結びついた一つの観念論だから、その意味を詮索したところで解決などつかないものなのかも知れない。

 でも例えば宗教論で掲げる祈り、人が神に救いを求めるような祈りというのは、そんな即物的な打算の含まれた行動とはどこか違うのではないかとの思いがしないでもない。とは言っても、祈りの多くは例えば世界平和であるとか戦争の終結、または「私の存在意義」だとか「人生の目的」みたいな抽象的なものよりは、「合格できますように」であるとか「結婚」、「安産」、「交通安全」のような、「我が身にとっての直接的な利益」を願うことのほうがずっとずっと多いような気がする。

 それはもちろん私の考えている私の中の祈りの一つのスタイルであって、例えばキリスト教徒やイスラム教徒などが礼拝で祈る内容について、私は何一つ知ることはない。そしてバチカンの司祭の祈りの中には、まさに世界平和みたいな思想が含まれていることは、世界中の誰もが知っていることだろうから、そうした意味では日本人の祈りはどこか「個人の打算」にまみれたものになっているのかも知れない。

 こんなことを思いついたのは最近読んだ本の中にこんな一言があって、その言葉がどこか祈りの本質(少なくとも私の抱いている祈りイメージ)を衝いているような気がしたからである。

 「・・・私はハンセン病に加え結核も発病し、死と向き合うことになりました。生きる支えが欲しく、精神的な救いを求め宗教を学んだが救われなかった。牧師は『神の思し召しでこの病気になったのです。一緒に祈りましょう』ということだった。祈りによって私は充たされることはなく、観念としての宗教は生きる支えにならなかった。・・・安静第一で治療に専念し・・・死の淵から脱出できるも、心は満たされず・・・」(ハンセン病者の軌跡、小林慧子著、同成社刊P151、患者・国本衛の手記「文学に生きる支えを求めて」から引用)

 「・・・園内
(収容施設のこと)に出入りする宗教家たちによって、療養所で暮らす幸せを感謝させられた」(同上、P152)」

 もしかしたら私は「祈り」に対して余りにも観念的、余りにも抽象的にその本質的な意味を求めすぎているのかも知れない。人間を超えた神に対して、人生の救いであるとか人知では解決不能な願いを託すことが祈りの本質なのだと、余りにも極端に思い込んでいるのかも知れない。
 それはそうかも知れないけれど、それでも祈りとは宗教家だけに認められた特権ではないように思える。念仏と祈りとが同質なものかすら私にはまるで分かっていない。そんな中途半端な意識で祈りを理解することなどできないのかも知れない。

 でもそんな中途半端な思いを抱くたくさんの人々、もしかしたら「神様、明日食う米がありません」と訴える程度にしか神の存在を理解していない者のために祈りは存在しているのではないのだろうか。祈りが信仰へと変り、寄付などを通じてその対象が一つの力ある組織へと変貌していく事実を知らないではない。
 そうした一つの組織としての力をもって始めて、祈りの対象(それを神と呼ぶか仏と呼ぶかはともかくとして)は祈っている人々へなんらかの福音を与えられるようなるというのだろうか。

 神が解決するのではなく、祈る心、信じる心が、自らの力で解決する手段を発見していく過程が宗教であることを知らないではない。恐らく神はカウンセラーではないだろう。うつ病の処方薬を投与する精神科医にもなり得ないだろう。そのことを理解できないではないけれど、それでも前掲したハンセン病患者の絶望的なまでの祈りに対して、「私は充たされることはなかった、生きる支えにならなかった」と言わしめるだけの力しか持っていない宗教、そして単に「神を信じましょう」としか繰り返すことしかできない宗教家の思いの貧困さに、私は宗教のどうしょうもないやり切れなさを感じてしまうのである。

 祈りをこんな風にしか理解できないようにしてしまった背景には、宗教を宗教家に任せてしまった私たちにも責任があるのかも知れない。そしてそこには身の切るような絶望から神を見上げるような環境に置かれることのなくなった現代人の、平穏であることへの無責任さがあるのかも知れない。祈りが人を救うのかとの疑問を持ったからなのか、それとも祈りでは人は救えないと私たちが思い込んでしまったからなのだろうか。それともそれとも、例えば寺の坊主が誰にも理解できないお経とやらを、理解させようとする何の努力もしないままに祈りを形骸化、形式化させてしまったからなのだろうか。

 もっと本質的には、私たちはもしかしたら祈りを必要としない生物に自らを改造してしまったのかも知れない。人工授精、臓器移植、クローン技術やES・iPS細胞などの再生医療などなどのニュースを見るにつけ、私たちは「未知への畏れ」を忘れてしまったように感じられてならない。生体治療などに関わる特許競争に必死になっている現代は、「国民的合意が必要だ」とする識者の枕詞だけが先行するだけで、なんにも解決への糸口を示そうとしない。祈りを失ってしまった私たちは、どこかで大切な判断基準とも言うべき人としての基本を、どこかへ忘れてきてしまったような気がする。



                                     2011.9.7    佐々木利夫


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祈りの意味するもの