年齢的に自分が近づいてきているから気になるのだろうか。自分ではかなり達観しているつもりなのだが、どこかで引っかかっているのか最近はタイトルに「死」の文字が含まれている本を読む機会が多くなってきているような気がする。死についてはこれまでも尊厳死も含めて何度かここへ書いてきた(別稿「『ガン再発』への決断と精神論」、「長寿国日本の平和ボケ」、「リビンク゜・ウイル」参照)。これから書こうとしているのは本も含めてなのだが、最近見た映画に触発されたものである。

 映画はまさに尊厳死を扱った医師の物語りであった(「死を処方する男 ジャック・ケヴォーキアンの真実」、2010年HBO製作、アメリカ)。1980年代、ミシガン州デトロイト、医師ケヴォーキアンは、自らが開発した装置による安楽死を推奨し、全米の安楽死希望者130人に及ぶ患者を死へと誘ったとされている。まさにここで映画は「人は自らの死を選べるのか」を執拗に問いかけてくる。それは「選べるのか」という疑問を超えて、「どんな苦痛に耐えてでも人は自らの死を望むことは許されないのか」との悲痛な問いかけでもある。

 この主人公は「嘱託殺人」による検察の起訴にもかかわらず、死を決意した患者の生き続けなければならないことへの悲痛な嘆きを記録したビデオの前に、すべての陪審員裁判で無罪が繰り返される。だがそれにもかかわらず主人公は一歩を踏み越える。これまでの嘱託の経過は死ぬための薬液の注入などのために「紐を引く」、「スイッチを押す」などの作業を患者自らが行っていたのを、主人公自らが行なうことにしたのである。この違いを検察は見逃さず、起訴内容を嘱託殺人から殺人罪へと切り替える。陪審員の前には、「嘱託」という事実にかかるあらゆる状況が、ビデオに限らず証言も含めて一切登場できないことになった。被告が「自らの手で薬液を注入して患者を殺したか」だけが争われることになり、それに関しては患者が死を自認し要望し嘱託している事実などは争点とされなかった。一人の患者の死の行方の中から「嘱託」部分が切り取られてしまったことによって、被告は有罪となる。

 ここで問われているのは単に尊厳死の意味だけではなく、単なる自殺願望との接点をどこに求めたらいいのか、更には単なる自殺願望もまた自らの意思による死への願望として他者が否定的に介入することの可否でもある。一人の死が多くの人の悲しみを誘うことを否定はできないし、場合によっては相続などによる他者の利害にも影響を与えるから、そうした意味で命は自分だけのものではないかも知れない。それでも「その人の思っている頭の中の意思」を他者が知り、それに干渉し介入することなどできないように私たち人間の体は作られている。そうした基本的な人間の構造そのものを承認することから尊厳死は始まるのかも知れない。
 この映画はそうした問題を嘱託殺人から単なる殺人へと争点を変更することで避けてしまったような気がする。もしかしたらそれは解決できない問題として放り出すしかなかったのかも知れない。

 それはそれとしてこの映画には「裁判における争点」に関する意味や陪審員裁判の進め方などにも興味深いものがあった。私の中でも「人が己の死を自らの意思で決めることができるのか」は、理解できる面と理解できない面とがいつもどこかで葛藤している。それは常に止まらない振り子のように、右に振れ左に振れながら私を悩ませる。命の問題は、自分の命や近しい者の命や、飢えや病、事故や戦争などで死にいく見知らぬ者の命なども含めて、どんなときもどこか解決できない部分を残してしまう。

 この映画とほぼ並行して、私は映画とはまるで無関係な一冊の本(存在の重み、神谷美恵子著、みすず書房)を読んでいた。この本は1979年に65歳で亡くなった一人の精神科女医のエッセイ集である。読んだきっかけは、誰かの著作の中で引用されていたからなのだが、読んでいてどこか彼女の抱く死生観というか死に対する意識にしっくりこないものを感じてしまった。

 「死に近づきつつある人はみな孤独の中で死を思うらしいが、それを口にするとまわりの者にはぐらかされたり、安易に慰められたりしてしまう。死の話の相手をすることは容易ではないが、逃げ出さずに話をうけとめるのが死に行く人のそばにある者の役割かと思った」(同書P126)。

 こうした考えには特に違和感はなかった。むしろ「死の話題を避ける」ことが相手に対する礼儀であり、労りであり、慰めになると考える人が多い現実からすると、むしろ著者の考えには賛同さえ覚えたくらいである。でも次のような文章に出会って、「おや?」と感じたのである。

 「・・・(らい患者収容所)の個室にいつも端然と座っていた品のいい80代のおばあさんがいた。・・・前から知っている人だったので、・・・たびたびベッドを訪れた。いつも白髪を私の顔にすりよせるようにして訴える。『あんたさんはわかってくださるでしょう。私はもう生きていても人さまの迷惑になるばかりです。どうか一服盛って、らくに死なせてください。ねえ、お願いです』。・・・老いてからとつぜん身内からひきはなされて孤独と拘束の中で死と直面し、死を希求しているのだ。この人に何が言えるか、と心に苦しく問いつつ何回かの訪床がすぎていった。・・・あるとき・・・ついに彼女は安らかに逝ったときかされた。安らかな憩いをもたらす死・・・が思いだされてならなかった」(同P126)。

 「むかし小学校の先生をしていたという篤信のクリチスャンが・・・ねたきりでいた。失明し、やせこけた60歳くらいの男性だが、・・・衰弱のあげく静かに昇天した・・・」(P129)。

 私は著者が「らくに死なせてくれ」と願う80代の女性に対して何もできず何も言えなかったことを批判しようとは思わない。そしてまた60歳の男性に対して彼の話に耳を傾けることしかできないかった無力さについても、何の非難をしようとも思わない。ただこの二人に死に対して著者がそれぞれの文末に記しているような、「安らかに逝った」、「安らかな憩いをもたらす死」であるとか、「静かに昇天した」などの思いを抱いたことに対して、どこか独断的に過ぎるような気がしてしまったのである。

 著者はこの本の別のエッセイで「・・・患者は『自分はもうすぐ死んで行くのに、親しい者たちにさよならも言えないのか』と悩んでいた。(こんな)単純な心理さえ、(医療者たちには)あまり知られていないらしい」(P167)と書き、「ガン末期にある壮年の患者は、『自分が死んだあと、他人が自分のことをどう言うだろうか』ということでひどく悩んでいた」(P167)とも書いている。著者はこうした思いを死にいくものの「淋しさとか孤独感(に含まれている)いろいろな夾雑物」と定義しているが(P166)、まさに死はその人にとって様々な夾雑物を含んだ、場合によっては他者の介入を許さないその人だけの現象だと思うのである。

 もちろん自らの死を揺るぎない心で理解し、穏やかな悟りの中に迎えることのできる人もきっといることだろう。でもそうした人は恵まれたほんの僅かな数に限られるのではないだろうか。著者は先に引用した「安らかに逝った」女性や「静かに昇天した」男性の死に立ち会っているわけではない。だとするなら、どんな思いでそれらの人たちが死を迎えたのかをどうして知ることなどできようか。「死にたくない」、「苦しい」、「痛い」、「助けてくれ」などと絶叫しながら、じたばたと死んだのではなかったとの情報を、人伝に知ったのかも知れない。それでも人が死の間際に他者にきちんと自らの意識を伝えることができるのか、もしくは昏睡の中に朦朧となったまま旅立っていくのか、そんなことも私は疑問を抱いている。

 つまり死にいくものの本当の気持ちを他人が知ることなどできないのではないかと私には思えてならないからてある。だから私は著者の書いた「安らかな死」や「静かな昇天」とは、著者自身が「そうあって欲しい」と願っただけのことにしか過ぎないように思えてならないのである。
 私たちは他者の死にぶっかったとき、医療関係者や周りの人たちなどから「苦しみませんでした」とか「静かな最期でした」などの話を聞くことが多い。それは私たちが「穏やかと伝えられた他者の死の中」に、自らの死もまたそうでありたいする願望を映し出しているだけに過ぎないのではないだろうか。

 著者はまた同書の中で「死をひかえての生の中で精一杯生き、できることならその生の中で永遠につながるものを吸収したいものだ」(P130)とも書いている。だが私にはこの言葉の意味がまるで理解できない。いかにも悟りきったように思えるおいしい哲学的な響きを持った言葉の羅列ではあるけれど、私には単なる「言葉遊び」にしかなっていないように思えてならないのである。

 「死ってのはどこか厄介なものだ」、こんなことばでこのエッセイを締めくくってしまうのはどこか卑怯なような気のしないでもないけれど、基本的に「自分の死」と「他人の死」の間にはどこかで超えがたい一線が引かれているような気がする。だから人はいつも、「死の話題」を避けようとしているのだろうか。


                                     2012.10.20     佐々木利夫


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