このタイトルについては前にも書いたような気がしているのだが、探してみたが見当たらないので重複を覚悟で書くことにする。テーマは日本語の誤解と変化についてである。

 「沈黙は金」、この言葉はこれに続く「雄弁は銀」と接続されることで、特に日本人特有の意味に解釈されて人々の間に広まってきているような気がする。かなり昔のコマーシャルなので知らない人の方が多いかも知れないが、「男は黙ってサッポロビール」というテレビコマーシャルのキャッチコピーがあり、苦虫を噛み潰したような笑わない三船敏郎の映像が流れたことがある。つまり沈黙こそが男の価値であり、ぺらぺら喋るのは男としての風格に欠けるみたいな意識が背景にある。

 こうした使い方はけっこう広まってきているような気がしている。なんたって、国語辞書でさえ、「沈黙の方が、雄弁よりもまさっていることのたとえ」(大辞林)だとか、「沈黙の方が雄弁よりも説得力がある。口をきかぬが最上の分別」(広辞苑)などと載せているのだから。もっとも広辞苑が説得の意味について「よく話して納得させること」としていることには、意味は分かりつつもどこか平仄が合っていないような気のしないでもない。

 「・・・潰れそうなほど業績の悪い会社は、トップの口数が少なくなる。従業員が騒然とするのを恐れて、悪い情報を意図的に隠蔽しようという場合もある。あるいは、『従業員に過剰な心配をかけてはならない』という『親心』から『沈黙は金』と考えて情報が秘匿される場合もある」(2011.8.12、朝日新聞、沼上幹の組織の読み筋)。

 そしてこれは発言者である法王の意図した言い方ではなく、掲載した新聞社の見出しの勝手な付け方だと思うのだがこんな記事もあった。
 「・・・ローマ法王ベネディクト16世が、(インターネットなどで)安易に答えを求める現代の風潮をいさめ、黙考の大切さを説いた。・・・『神は沈黙の中で語られる』『沈黙の中でこそ我々はよく聴き、よく理解できる」(2012.2.1、朝日新聞、ネット社会の人々よ『沈黙は金』 法王が呼びかけ)

 日本語の揺らぎなり変化についてはこれまで何度か書いてきたことがある(別稿「一所懸命・一生懸命」、「またまた『あげる』論」、「かわいいとおいしい」など参照)。だからと言って例えば古事記や万葉の時代からの本来の用法を厳格に守るべきだとか、言葉が揺れることそのものが間違いだなどと思っているわけではない。

 でも本当にこうした辞書のような使い方が正しいのだろうかと疑問に思ったのである。それは、私の抱いている解釈とどうも真っ向から対立しているように思えたからである。つまり私は、このことわざは金を褒めたのではなく、銀にこそ価値があるとして雄弁のほうに軍配を上げた言葉ではないかと思っているからである。

 まずこの言葉の発祥から探ってみよう。と言っても文献を求めて図書館巡りをするほどの気力もないので、一番簡単なのが引用することに批判は多いけれどネット検索である。どこまで私の確信にたどり着けるかは疑問ではあるけれど、まあ私の努力はせいぜいこの程度のものと理解して付き合っていただきたい。

 それによるとこの言葉は、イギリスの思想家トーマス・カーライル(1795〜1881)の「衣装哲学」という著書の中の「Speech is silver,silence is golden」の訳だとされている。だとすると、日常的に利用されている言葉の順序である金・・・そして銀・・・とは逆であることが目に付く。もちろんこの言葉がカーライル自身のオリジナルなのか、それともどこか他の文献などからの引用によるものなのかの解釈は分かれているようだが、違和感はここから始まる。

 私の記憶そのものを直接裏付けてくれるような解釈をネットで見つけることはできなかったのだが、私の解釈の根底はこんな記憶によるものである。
 それは金と銀との利用の違いである。コンピュータの発達した現代でこそ、金は電気の伝導性が非常に高いことから電子部品などに多用されているけれど、このことわざのできた頃はまだそこまでいっていない。歴史的に見ると、金の利用は圧倒的に装飾品である。貨幣などにも使われているけれど、それは政府などのコントロール下に置かれており、一般市民の利用と言うのは指輪、ネックレスなどの装飾品に限られていたと言ってもいいだろう。その原因としては、金は錆びるなどの変化が少なくいつまでも輝いていること、材質が比較的柔らかくて加工に適していたことなどがあげられるだろう。

 一方、銀の方はと言うなら、もちろん比較的金よりも曇りが出やすいことなどもあって装飾品への利用はやや少なかった傾向にはあるけれど、それ以上に食器への利用は群を抜いていた。金よりは若干劣るとは言え錆びにくいこと、そして金よりも固いことから皿やフォークを始め水差しなどの容器にいたるまで銀食器の出番はかなり広範囲であった。もちろん銀食器といえども高価だったから庶民の手には届かなかったかも知れないけれど、あるレベル以上の人々にとっては、傷つくことも錆びることも少ない実利的な金属だったのである。

 つまり、金はきらきらと輝くだけの見かけだけのものであり銀の方にこそ実用的な価値がある、と多くの人が考えていたとの解釈である。見かけをとるか、実利に価値を見出すかは人により様々だと思うけれど、こうした意識の違いは「金は銀に勝る」との常識的な考え方を揺るがすものになるのではないだろうか。そしてその揺らぎは同時に、このことわざの持つ解釈そのものをも揺るがすことにつながるのではないかと思うのである。

 そしてもう一つ、私を支援してくれている考え方がある。金は今でも砂金などして、100%純粋なのかは必ずしも分かっていないのだが一応「純金」として産出される。北海道にも金の鉱山がいくつもあり、アメリカにおけるゴールドラッシュなどの話題は歴史的にもドラマとしても著名である。そうした金を巡る様々は、金が純金のかたまりとして産出されることが背景になっていることが多い。
 実はお遊びだが私も稚内に近い浜頓別町まで、川での砂金すくいに妻と二人で出かけた経験がある。残念ながら指先にかろうじて光るマッチの頭よりもまだ小さなヒラヒラの金箔を見つけただけだったが、それでも小指の先ほどの小瓶を買ってその中の赤い布に貼り付けて持ち帰ったことがある。もちろん金としての価格がゼロであることは言うまでもない。

 話があらぬ方向へ逸れてしまったが、ところで銀のほうは化合物としてしか自然界に存在せず、そこから純銀を精錬するための技術が確立したのはかなり現代になってからだったというのである。こうした精錬技法の遅れなどから、金よりも利用価値の高い銀の方が高価だったとの解釈である。

 さてこのように理解、つまり金よりも銀の価値の方が高いというように理解してくると、この「沈黙は金」と言うことわざの意味もまるで違ってくるように思える。私たちは銀よりも金の方が何倍も価値があるとの事実を暗黙のうちに前提としているから、「沈黙は金」と「雄弁は銀」の二つを並べたとき、無意識に金のほうを優先して価値が高いから金について述べたことわざなのだと選択してしまうのではないかということである。

 私としては銀の価値の方が高いと言うように理解してこそ、このことわざの発祥だといわていれるトーマス・カーライルの言葉が「Speech is silver・・・」と銀から始まっていることもすんなりと納得できるような気がしてくるのである。カーライルはきっと、演説にせよ説得にせよ、まず人に語ることから何事も始まるのだ、黙っていては何も分からない、だから雄弁にこそ金に勝る価値がある、そのことをまず言いたかったのではないかと思うのである。

 聖書にこんな言葉があるのをご存知だろうか。「黙っていれば愚か者でも賢く思われる」(旧約聖書、箴言、17章28節)。いわゆるソロモンの言葉である。もちろんそう言った意味を示唆したのが「沈黙は金」の真意なのだとするなら、私はここで少し喋りすぎたことになるのかも知れない。

 もちろんだからと言って、「おしゃべりも度を過ぎるとその人の価値を下げてしまう」ことを否定するものでは決してないのだが・・・。


                                     
2012.4.17     佐々木利夫


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沈黙は金