名前だけは知っていたけれど、「死海」に関する私の知識はせいぜい、「塩分濃度が高いため人間の体が沈まない」程度のものだった。普通の海水の塩分が3%くらいなのに死海のそれは約30%と言われているから、とてつもない湖であることは想像できる。そんな私が死海について興味を持ったのは、数年前に死海文書という名称に触れ、関連した本を読んだのがきっかけだったと思う(別稿「死海文書ってなに?(上) (下)」参照)。

 ただ、海外旅行にまるで興味のない私にとって、それほど注意を引く場所でなかった。だから、私の死海に対する関心も、上記のエッセイを書いた時点で止まってしまったようだ。もっともこの程度の理解で満足してしまった私の存在は、別の意味で死海文書という壮大な内容を目の当たりにしながら目を向けることのなかった自分にいささか落胆はするけれど、まあそれが私自身でもあるのだろう。

 ところで最近のテレビニュースを見ていて、この死海のことが話題になっていることを知った。なんでも2050年頃までに死海が消滅してしまうという話である。とにかく、毎年、毎年、死海の水位が1メートル近く下がり続けていくのだそうで、このままでいくとあと30数年で干上がってしまうとの報道である。

 その原因が地球温暖化にあるのか、それとも死海に注いでいる河川の水量が農業用水などの利用で枯渇し始めたのか、それともそれ以外に原因があるのか、あいにくとテレビからは聞き漏らしたのではっきりとは分らない。ただ死海が少しずつ干上がってきて面積が小さくなり、やがて消えてしまうという恐れは確かにあるらしいのである。

 死海はアラビア半島のほぼ北端にあり、西岸がイスラヘル、東岸をヨルダンに接している周囲135km、面積940平方kmの渓谷にある湖である。日本の琵琶湖の面積が670平方kmだから、その約1.5倍近くの大きさを持っていることになり、日本一である琵琶湖を見て思わず海と間違ってしまったような私の知識からするなら、まさに広大な湖水である。

 この死海消滅を回避するため、イスラエルかヨルダンかは分らないけれど(もしかしたら両国か?)、海から人工的に海水を運んで死海に注ぎ込むという壮大な計画を立てているのだそうである。ただ、恐らくその意図に、例えば私たちが「里山を守ろう」みたいな自然保護ではなく、「観光資源としての死海を守ろう」みたいな思惑を感じてしまうのは私の思い過ごしなのだろうか。

 それにしても死海の消滅が目の前に迫っているということは、そのまま「死海が死ぬ」ことを意味している。外部から海水を注ぐことで、とりあえずの延命はできるかも知れない。でもこの原因を作ったのは人間であることに、そして人間の自然破壊というのがここまですさまじいものであることに私は驚いた。原因が温暖化によるものか、無制約な水利用によるものか原因は分らないと書いた。大きく見るなら、地球といえども全球凍結を経験したほどにも巨大な気候変動を繰り返している。だからその変化が最近話題の温暖化の比ではないことくらい承知である。そしてまた巨大隕石の落下が恐竜という数億年を生きてきた種を絶滅させるような現象を招いたことも知らないではない。

 それでもそうした変化は数千万年、数億年という地球そのものの変化、宇宙における地球の位置みたいな単位で訪れたものである。しかし死海の死は、そうした自然現象によるものとはまったく違っている。人類の、種として歴史をどのように捉えるかは難しいところではあるが、文明という理解でとらえるならばたかだか数千年を経験しただけにしか過ぎない。更に言うなら、化石燃料を使い出したとか産業革命などを通じて地球環境に影響を与えるような行為を基準に考えるなら、僅か数百年のことでしかない。そうした僅かな時間における人の営みが、今やこの地球という壮大な環境を変えようとしているのである。死海はその一つの証左として私たちの目の前に突きつけられたあからさまな事実である。それは決して、海から水を引いて干上がるのを防ぐという問題ではないのである。

 今年3月に横浜で開催される国連の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」の最終報告書案は、このまま何の対策もとらないままでいるなら地球温暖化による海面上昇などで、今世紀末までにアジアを中心に数億人が移住を余儀なくされると予想している(2014.1.8、朝日新聞)。
 北極の氷が溶け出していることは衛星写真などからも明らかにされているし(別稿「消える北極」参照)、南米大陸南端パタゴニアの氷河が縮んでいく(上記1.8の朝日新聞)など、地球規模で気候変動が大きくなっていることはここ数年の世界各地の台風や豪雨、猛暑や寒波などの報道からも知ることができる。これらの変化と温暖化とがどこまで関連しているのか必ずしも分らないけれど、私たちは、経済だの国益だのと言う一種の贅沢に追いかけられて、地球というこの惑星をまさに食いつぶそうとしているように思える。

 それが人という種の避けがたい思惑なのかも知れない。自然に従うのではなく、不遜な思いかも知れないけれど、「自然と闘う」、「利用する」、「征服する」ことが、種としての人間のDNAに組み込まれた約束なのだとするなら、間もなく人は絶滅するだろう。地球そのものの消滅は、仮にそれが数億年の単位にしろ事実と考えられているが、その終焉を見ることなく人は地球から消えてしまうだろう。まだ人類が生存し続ける余裕が残っているにもかかわらす、その余裕を急ぎ足で食いつぶそうとしているからである。それはそのまま「人間の業」とでも呼んでいいのかも知れない。


                                     2014.1.10    佐々木利夫


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