両親とも肥満体と言うのではなかったから、私にそうした遺伝子があるとは思えない。体重に関するもっとも単純な考えは、口から入った重量と尻から排泄した重量との差額によって増減すると考えてもいいだろう。もちろん、口から入れた食料の一部はエネルギーに変換されて細胞の再生であるとか心臓や筋肉の運動などと言った諸作用に使われることは知っている。むしろ「食べる」ことの意味は食べることそのものが目的なのではなく、食物から得られるエネルギーを獲得することなのだと考えていいだろう。だから単純な入出力の差額だけで体重が増減するものでないことくらいは知っている。まあ頭を使ったり、食べるために口を動かしたり呼吸したりするエネルギーなどを、一まとめにどこまで基礎代謝に含めてしまうかは疑問ではあるのだが・・・。
それでも基本的には食べる量と排泄する量との差額が、体重の増減に決定的な影響を与えていることは間違いがないだろう。私が比較的太り気味の体格になっていると気づかされたのは、独身時代の22〜3歳のころであった。稚内に勤務していたとき、ある役場の職員から電話が入り自分の名を名乗ったときのことである。彼は電話口で私に向かって、「ああ、太った人ね・・・」といったのである。
高校時代は体操クラブに所属していて吊り輪などを得意としていたから、いわゆる逆三角形体躯を自認していたくらいなので、自身が「太っている」と思ったことなどはそれまでまるでなかった。それがいきなり第三者から肥満を指摘されたのである。それほどショックを受けたような記憶はないのだが、その時の「言われた記憶」を今でも覚えているということは、どこかでそのことを引きずっていたのだろう。
そう言えば独身寮では仲間との毎夜の酒盛りが日常化していた。それに加えて運動不足を絵にかいたようなデスクワークオンリーの生活だったから、肥満が染み付いていくのは当たり前だったのかも知れない。そしてその時に馴染んだ酒好きは体質にまで影響を与え、歳月に任せてますます身についていったのである。
時を経て職場で古参になるに従い自然に部下との飲み会が多くなってきた。また少しずつ管理職もどきのポストを与えられるようになると、外部との付き合いなども多くなってきた。仕事のほうは相変わらず文字を読むことと、鞄・鉛筆・そろばん以上に重いものを持つことなどない生活を続けていた。つまり入力超過の時代が果てるともなく続いていたということである。
そんな生活が職場を去る定年近くまで続き、そして一人の事務所を開いた。いよいよ独立独歩が始まった。これまで決して許されることなどなかった、「昼間からビール」みたいな生活も時には許されるようになり、まさに気ままな生活が始まった。とりあえず仕事もそれなりにあったから、関係先や仲間・先輩OBなどとの飲み会も順調で、ある日ふと気づくと我が体重は86.6kgにもなっていたのである。このままでは間違いなく90sの大台に乗るだろうことは目に見えてきた。
平成10年7月の退職から一年近く経った11年秋、ここから私の体重への挑戦が始まった。体重を減らすためには、結局二つの方法しかないと分った。企業でも家計でもそうなのだが、生き残っていくためには「入るを図り、出るを制す」が第一である。体重の減少をターゲットとしてこれを適用するするなら、「入るを制し、出るを図る」である。とは言っても「出る」ほうのコントロールは難しいから、結局入口たる食生活の制限しかないことになる。
そしてもう一つが運動である。しかし、事務所と言っても体を動かすような仕組みはない。税理士事務所なのだから、税法と通達が基本でありせいぜい会計データをパソコンに入力する作業くらいしか体を動かすような動作はない。ルームランナーもどきの自転車風足こぎマシーンを入れたこともあるのだが、「わざわざ運動する」ような時間を設けることは現実的に難しかった。それに近くにエアロビクス教室みたいな会場もないので、通勤と組み合わせることも難しかった。
週に一回、市営プールでの水泳を試みたこともあったのだが、沈黙のままひらすら泳ぐという作業は実はその中に楽しみが一つもないこともあって、長くは続かなかった。近くの三角山登山にも挑戦した(別稿「
家より高いや」参照)。だがそれも突然発症した脳梗塞によって諦めざるを得なくなった(別稿「
我がミニ闘病記」参照)。
そうした中で比較的続いたのが自宅から事務所までの徒歩通勤である(別稿「
四千万歩の男」参照)。これもやがて足首を痛めて挫折してしまうのだが、約10年ほど毎日続けることができたので、まあ体重減少の効果には大きく寄与したと考えている。
口からの入力制限に関しては、飲兵衛なので宴会ではどうしても飲みすぎ食べすぎが重なることのコントロールから始めなければならない。そのためにはどうしても仲間や同業者同士の会合への参加を減らす必要がある。「つき合いが悪い」と言われるかも知れないけれど、まずは体重管理こそが最優先である。
かくて5年後、努力の甲斐あって体重はなんと65sにまで減少し、20s以上の減量に成功したのである。背広もワイシャツも、実を言うと靴下も一回り小さくなるくらいの効果であった。
家では酒は飲まない、栄養には気をつける必要があるので朝晩の食事はきちんと当たり前に食べる(妻に感謝)が基本である。そして昼は事務所でサツマイモとキャベツを電子レンジでチンした粗食に耐えるという徹底した管理であった。もちろん生来の酒好きは止めようがないので、友人と月数回開く事務所居酒屋などは止められなかったけれど、それ以外は間食も含めて定時の食事以外は口にしないとの制限を徹底して己に課したのである。
そして更に5年後の平成20年12月、体重はついに62.1sにまでなったのである。この体重におけるBMI指数は23.0で、標準の範囲内とされる18.5〜25未満に入るから、ほぼ標準体重になったということである。それでも時折ゆり戻しがある。それがリバウンドと呼ばれるものなのかは分らないけれど、少しでも油断すると体重計の針は増加のほうへと転じていくのである。
飲みたい、食べたいは我が性格である。だがもう二度と80キロ台に戻ることを許してはならない。私のBMT指数は標準の範囲内ながらもまだ上限に近い。もう少し減らして少なくとも60キロをキープしたいと考えた。そこでもう一息と決めたのが、「これまでの体重を100.グラムでも減らすことができたなら、ご褒美に酒を飲ませる」ことを自分に課すことであった。
飲む機会はそれなりあるし友達を誘うこともできる。事務所界隈は札幌の副都心とまでは言えないまでも、一種の街外れの繁華街にあって交通の便も悪くない。だから誘えば付き合ってくれる飲み仲間もそれなりいる。千円会費では満足できるような手料理を振舞えるまでにはいかないけれど、久々のうま酒に酔うことはできる。
ところで今日は2015年6月19日金曜日である。毎日体重計に乗って記録しているのだが、今朝の体重は60.1kgだった。この値はダイエット開始以降の最小値となった6月9日の60.2sを100グラム減らしたのである。ご褒美とはいえこの成果に便乗して、飲んで食べるとまたまた2〜3kgは増えてしまうことだろうが、そこからまたこつこつと減らしていくことで、きっと月末近くまでには60.0sを達成することができるだろう。
ダイエットで気づいたことがある。食べることを制限することは、金がなくて食べ物を買えないというのならひもじさからみじめな気持ちになることがあるかも知れない。だが、少しずつ減量するという目的で粗食、少食に移行することは一種の励みになるという満足感があるのである。ある目標を決め、体重計の測定値というデジタルな数値がその実現に近づいていくことをきちんと示してくれることは、一種の高揚感にもつながるのある。そして段階的にしろ達成に対する褒章を我が身に与えることができるということもまた、その高揚感を上乗せしてくれるのである。
60kgに達したなら、一応これを目的達成として区切りをつけるつもりでいる。これ以上の減量は必要なしと我が身に言い聞かせてもいいのではないだろうかと考えている。もちろん食べたり飲んだりするたびに、我が体重は60kgを超えるだろう。そうしたとき、前より減らすというのではなく「60kgをキープすること」、それを目標とするのである。
86.6kgから60kgへ、私はこの減量に15年を要したことになる。妻からこれまでは仕立て直しを繰り返すことでどうやら体格に合わせていた背広・コートやワイシャツも、ここまでの減量には対応が難しいのでどうしても新調してほしいと、せっつかれている昨今である。
2015.6.19 佐々木利夫
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