前回「テロの生まれる時代(1)」では、人類が他の生物となんら違うところはなく、進化の過程で生まれた生物の一種に過ぎないことについて触れた。そして「生きること」、「生き続けること」ことこそが与えられた根源的な宿命であることも・・・。

 生物は常に死と直面する。だが死は生物としての自己否定でもある。だから生物はそうした自己否定に抵抗する手段として、自らが不死として生き残るか、それとも複製として残るかを選択するかの道を選ぶしかなかった。だが不死は叶わず、生物は複製の手段を選ぶしかなかった。複製には自らのコピーを増殖させていく方法と、それともう一つ自らの死と引き換えに子孫を残すという手段しかなかった。そしてほとんどの生物が、子孫を残すという方法での生き残る方法を選択した。

 そうしたとき、同じ種として生き残るとしても、生き残るのが他者か自己かの選択を迫られる。環境の変化には「種」としての変化で対応することができる。だが、「自己の死」はそれで賄うことはできない。食べることでもいい、生殖の相手を選ぶことでもいい、「自己が生きつづける(複製する)」ことと他者が生きつづけることとが矛盾する場面が生じたとき、個体はそのいずれを選択するだろうか。

 仲間がいて、仲間のために尽くす者がいたとする。こうした者は恐らく負傷したり死んだりする危険に直面したりする確率が高くなるだろう。そして自分の命を守ることに固執する者は生き残ることになるだろう。この両者のうち、いずれが子孫を残す機会に恵まれることになるだろうか。答えは明らかである。それをエゴと呼ぼうが、はたまた臆病と呼ぼうが、更には打算と呼ぼうが、「子孫を残す勝負」の勝者は明らかであろう。

 そうした気質がどんなふうに遺伝していくのか、私には必ずしも分らない。それでも家族・血族・部落・国家などなど、私たちは人類としてそうした気質を受け継いできたのではないだろうか。そうした一つに民族意識とか土地柄という「人の思い」と言ったものが考えられるような気がする。

 人は、無毛で武器となる牙も爪もなく生まれてきた。二足歩行はこれまでの四足と違って追いかけることにも逃げることにも制限を加えることになった。山林から平原への生活圏の変化は、樹上へ逃げる能力の喪失を意味した。もちろんそれらと引き換えに頭脳の発達という別の能力を獲得したことは否めない。手を使う武器を開発し、一年中妊娠可能とするため発情期という機能を放棄した。そして家族や男女による分業システムを作ることで子孫を育て、種の保存や維持を図ってきた。

 このように考えてくると、私たちがエゴとして他者を排斥する行為は、生物であることの本質にあるのではないかと考えられる。そして他者の排斥は、時に「相手の死」という結果を招くことでもあったと思うのである。

 それでもここまでの経過では、「人もまた生物である」ことの範囲に止まっている。食糧確保のための縄張り、メスを確保するための戦いは、まさにあらゆる生物に共通して見られる特徴だからである。

 だが人はこうした一線を超えた。生物の生存における「相手の死」は、排斥の結果として生じたものであった。排斥する行為は決して「相手の死」そのものを目的としたものではなかった。従順でもいいし、逃走でもいい、相手が私の支配圏から競争相手として存在しなくなることで、その排斥は完了したのである。もちろん「死」も同様に価値を持っている。しかし目的は「死」そのものではなかったということである。

 人はそれまでの死という概念に付加価値をつけた。「相手の死」は結果ではなく、死そのものを目的とするようになった。時に殺人を楽しむようにさえなった。こうした目的や楽しみという付加価値が、私にはテロの温床になっているような気がしてならない。「相手の排斥」だけで足りた思いがどのようにして「相手の不存在そのもの」を願う心へと変化してしまったのか、私にはよく分らない。

 他の生物に比べて、人間は長生きしすぎるようになってきたからなのだろうか。宗教という抽象を作って神という万能者をそこに存在させるようになってしまったからなのだろうか。それとも政治などという巨大なシステムを作ってそこに個々人を従属させる手法を思いついてしまったからなのだろうか。

 それぞれにそれなりの根拠があるような気がしている。僅か10万年、更に言うなら僅か5000年足らずの期間を経て、人は100歳、100年もの寿命を獲得するようになった。こうした寿命の異常な伸長は、人という生物を子孫維持という生物本来の持つ使命以外への思いへと人を駆り立てたのかも知れない。

 また神は巨大な一神教という思いを生み、他者の排除を私たちの「見える範囲」から「地上からの抹殺」へと拡大した。神こそ最大の殺戮者であることを、私たちは歴史上も現実の宗教戦争などでも身に沁みて実感している。

 政治は国境を作り、その国境を拡大すること、他の国を消滅させることに執心した。武器は手斧や投石から銃や大砲へと進化し核兵器は無差別殺人を承認するものとなった。

 死は生物として当たり前に存在している。犬も猫も、なんならバクテリアや昆虫や木々にいたるまで、一つ例外もなく存在している。だが私たちはそうした死を承認しない時代を生きている。

 だからそうした死のイメージがどんなに変化してきたとしても、私たちは本質的に「生物としての命と死」を引き継いでいるのである。それは正義とか許しとかの範囲を超えた、生物としての宿命なのだと思う。それを人の知恵で変えようではないかと思う人がいるかも知れないけれど、私は人が人であることの本質の中に「他者の死」が含まれていると思うのである。

 「他者の死」とは、まさに「人が人を殺しあうこと」である。それが教育や貧富の差をなくすることで解決することなど決してないことを、私たちはこれまで徹底的に教えられてきたはずである。アメリカの大統領が、世界の各国が軍備の増強に励み、教育を受けたはずの多くの政治家が軍隊の行動を承認する事例を、私たちははっきりと見ているはずである。

 テロと戦争とはどこが違うのか、内乱と革命とは異質なものなのか、それらと教室内での「いじめ」とはどう違うのか、育児放棄を「母性の欠如」みたいな観念で処理してしまうことの危うさ、性善説を言い逃れにしてしまう多くの責任ある者の言い訳などなど、私たちの回りでは多くの崩壊が見られる。それらのことごくが私には、人間であること、我々が霊長類であることを過大視した驕りに原因があるように思えるのである。

 私たちは人間(もしかしたら白人のみ)を高等生物と位置づけ、生物界に君臨する支配者であることを自認している。高等という意味を、低級と対比しての使い方と、例えば神経回路や代謝系などの複雑さを示す使い方との二通りがあるように思える。それでも人は「高等」という言葉としての位置づけの中に、あたかも自らが神となったような錯覚を抱いているのではないだろうか。

 かつて私はこのエッセイの中で、人類の滅亡を示唆したことがある(別稿「カッサンドラの呪い」、「バベルの塔の教訓」参照)。戦いに明け暮れる人類の今の姿を見ていると、人はまさに自滅へと向かって進んでいるような気がする。そしてそれは人が人であることの当然の行き先であるように思え、それは「人を殺す」ことを本性として覚えてしまった人類の、至極当然の着地点だからだと思えるからである。そしてそれは既に引き返すことのできないところまできている。

 私の余命ではその時を知ることなどできないかも知れないけれど、そんなに遠い先ではないだろう。人が人を目的を持って殺すことは、もう止められなくなっているからである。だから私は、そうした経過をゆっくりと眺めているのである。


                                     2016.3.13    佐々木利夫


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テロの生まれる時代(2)