私自身が老いの真っ只中にあるせいか、死ぬことをそんなに切羽詰ったものとして捉えているわけではないつもりではいるものの、どうしても「命」だとか「死」が私の作るエッセイのテーマになることが多い(別稿「他人の死」、「リビングウイル」、「遠い命と魂と」参照)。そしてその度に命とは何かにぶつかり同時に混乱の中へと陥っていく。

 それは命(いのち)とは何か、そして「死ぬ」ことと「殺される」ことの違いはどこにあるのだろうかの思いでもある。命の終りを「死」とすることには何の異論もないだろうけれど、「生きること」に対して真正面から対立する言葉が「殺される」なのだろうかとふと感ずることがある。そうして「殺される」以外の死がいわゆる自然死なのだろうかとの思いが頭をよぎったとき、世の中に本当に自然死というものが存在するのだろうかとふと疑問が湧いてきた。

 人が人を死亡させることを「殺人」と言う。ライオンやひぐまが人を襲って死に至らしめることも「殺す」と言う。恐らく蟻の大群が人を襲って死に至らしめた場合(多分にSFやホラー映画などに影響されているような気がしているけれど)も、その蟻は「殺人蟻」と呼ばれるであろう。

 そうすると「殺人」と言うのは、自分以外の生命体が人を死に至らしめる現象を言うのだと定義できるのだろうか。もし仮にこの定義が許されるなら、結核や赤痢などの伝染病による死もまた「殺人菌」による殺人と言うことになる。ウイルスを生命体と呼んでいいのかどうか私は必ずしもきちんと理解しているわけではないけれど、増殖や自己複製をしていくウイルスに擬似的にもせよ生命の存在を感じていいのなら、エイズによる死もまた殺人だということになる。

 いつ頃だったろうか、こんなテレビ番組を見た。7歳の子供に対して「お前は癌である」と告知する母親の話だった。手術をしても余命一年、場合によっては半年と言う状況を母が子に伝える場面をテレビカメラは追っていた。告知後、母親はこんな風に子供に付け加える。「自分の置かれた立場が分かったでしょう」。

 告知した母親を残酷だと責めたいのではない。悩んで、悩んで、その結果としての告知の選択だったであろうことは画面からもひしひしと感じることができたからである。
 それでも私はどこかすとんと心に落ちないものを感じていた。「これを告知と言っていいのだろうか」、「告知という手段を選んだことになるのだろうか」と・・・。

 子供は消え入りそうにつぶやく。「死にたくないよ」、「絶対生きるもん・・・」。その後日談に接する機会はなかったのでこの子がやがてどうなったのかは知らない。ただ、医師が見放したガンが何かの奇跡で治ったなんてことは普通には考えにくい。恐らくこの子は死んだ。避けられない死が自然死ならば、この子を襲った死は「自然死」なのだろうか。癌もまた生物(いや、変異した自己細胞とでも呼ぶべきか)による殺人に区分されるべきものなのだろうか。

 私が問いたいのは、それが意に沿わない死であっても「自然死」に含めることができるのだろうかとの思いである。つまりそれは反語としての「納得できる死」なんてあるのだろうかとの思いでもある。
 仮にそんな死などあるはずがないと言えるのなら、果たして「自然死」とは一体何なのだろうか。

 「納得できる死」には頭で考えるだけなら、例えば死よりも辛いと思えるような極限状態であるとか、強い自殺念慮などによる死の選択などが含まれていいのかも知れない。
 しかし、それとてもそうした選択を「自然死」と呼んでいいのかと問われれば、言葉と実態とが余りにもかけ離れているような気がしてならない。

 もちろん、例えば100歳を超えてまだしっかりとした意識があり、特にこれといった医学的な異常が認められないにもかかわらず身体の機能が自然に衰えていくというような場合がないとは言えないかも知れない。妻や子や孫やひ孫、そして多くの親類縁者や親しい友人などに囲まれ、残った僅かの意識の中で己の死をきちんと自覚し、回りのそれぞれに感謝の言葉を伝えつつ、「ふーっ」と最後の一息を吐いて目を閉じる、そんな穏やかで贅沢な死がないとは言えないだろう。そしてそんな死をこそ「自然死」と呼ぶのにふさわしいのかも知れない。
 だが多くの死は、もし身勝手な表現を許してもらえるなら、恐らくは全部の死がそうした穏やかで贅沢な死ではあり得ないのではないだろうか。

 アポトーシスと言う言葉がある。一般的にはプログラムされた細胞死だとされている。細胞は自らの中に遺伝子として「死」そのものを内包していることを示す言葉でもあろうか。細胞分裂により増殖していく単細胞生物に死はないのかも知れないけれど(別稿「発生生物学」参照)、そうでない生物にとって死は約束された結果であり、アポトーシスのテーマは生物に共通する組み込まれた生命そのものの構成要素でもあることを示している。逆に言えば生物は「自らの死」と引き換えに子孫を残す形での永遠の命を選択したのだと言うべきかも知れない。

 アポトーシスは血行不良や外傷などによる細胞内外の環境の悪化によって起きるネクローシス(細胞壊死)とは区別されている。老化やそれに伴う自然死がアポトーシスのみに限定していいものなのかどうか、命の終りにも様々な議論があるとは思うけれど、どこかで「納得できる死」の存在が現代ではあまりにもないがしろにされているような気がしてならないのである。



                                     2008.9.24    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



死と自然死