私がどちらかと言うと味音痴であることは自らも認めていることだし(別稿「料理オリンピック」参照)、味についてとやかく言うだけの舌を持っているわけでもない。
 だからと言って私の生活の全部が味覚障害者のように味と無関係に過ごしているわけではない。

 ただ何気なく見るテレビには料理やグルメ紀行など味を求める番組も多く、時に味の達人と言われるような人たちの解説などを見ることも多い。そうしたときに味に関する彼我の違いを感じることが私の味音痴を間接的に証明しているのかも知れない。
 それはそうなんだし、そうした番組の全部をこうだと決め付けるわけではないけれど、食べることに対するゲーム化など、自分の身に置き換えてみてどこかに嘘っぽさや傲慢さなどを感じてしまうこともまた事実である(別稿「すいとん幻想」、「食物争奪戦」参照)。

 そうした違和感の原因には撮影の対象であるとか目的、それにスポンサーなどを含めた番組の編成上仕方のない面があるのかも知れないけれど、「美味い、美味い」の連発が手を変え品を変え、表現や表情なども変えてこれでもかこれでもかと繰り返されることにもある。そしてそうした感動的な美味さを表現する出演者の感覚が、どうして私には備わっていないのだろうかとの疑問を抱かせると同時に、どこかで読んだことのある「人間の五感の中で味覚だけが一番鈍感である」とした言葉に後押しされた「そんなに絶叫するほどの美味さなんて本当にあるのだろうか」との疑問でもある。

 そして思うのである。「旬がうまい」とはそうした番組の多くで聞く言葉ではあるけれど、そうした言葉そのものが「旬以外の味を知っているからこその表現なのではないだろうか」と。

 一番手軽なダイエットが歩くことだと言われて毎日実行しているけれど、食事作りもまた同時並行の作業であり、昼食の手作りは事務所開設以来の日課でもある。
 ところでここ数年来昼飯には「サツマイモ」の出番が多い。芋が代用食としてのイメージを持つことは戦後の食糧難を経験した者の共通的な特徴かも知れないけれど、米が食えないときにその代りに芋を食うことは私たちの世代の染み付いた感情になっているのかも知れない。
 私は相変わらず朝晩米の飯を習慣にしているけれど、パン食は多くの家庭で日常化されてきているし、麺類の進出も著しい。なんたって昨今の米の売上の減少は日本人の主食の変化を如実に示していると言えよう。

 それはともかく、ある時通勤途中の市場から興に任せてさつまいもを買ってきて昼飯にしてみてから、芋に対する代用食のイメージがどこかへ消えていったことは事実である。
 焼いたり、煮たりと様々な方法にチャレンジしてみたが、なんたって昼飯なのだから手軽さが一番である。試行錯誤の果てに落ち着いた調理方法が現在採用している電子レンジを使うものである。

 比較的小振りの芋を買ってくることもあって、一個の大きさは長さ20cm、重さ百数十グラム程度のものである。これをピラーで皮を剥いて4〜5センチの輪切りにして、電子レンジ用の小さな容器に水を張った中にしばし泳がせておく。サツマイモの調理準備はこれで終わりである。水に晒すのは灰汁抜きをイメージしているのだが、これが美味さに関係があるのかどうかは定かではない。ただ水に晒すことで仕上がりがふっくらとしてくるのは違いないようである。

 さて次はこの芋にキャベツの葉を2枚ほど、茎も含めて手でちぎってかぶせるのである。容器に蓋をして中の水をしっかり切るとこれで準備万端整ったことになる。そのままレンジで6分間チンをする。
 この時間を使ってその時の状況で異なるけれど、一番多いのが目玉焼きである。小さなフライパンにごま油少々を熱し、少し煙が出てきた頃に卵を一個割入れるだけである。フライパンに蓋をし火を小さくしてじっくりと蒸し焼き状態でレンジのチンと同時にいい仕上がりになる。

 さてこの食べ方だが、ほんの少しの醤油かソースがあれば足りる。漬物に醤油をジャブジャブかけて食う人のいることを知らないではないけれど、私はもともと塩味を敬遠していておひたしなども酢を使うことが多いことから昼飯のサツマイモもホンの僅かの塩味で十分である。
 そうして気づいたことがある。サツマイモそのものの味が次第に分かってくることである。キャベツさえもそのまま味わうことができるようになってくる。

 こうした食べ方は旬を味わうこととは少し違うけれど、味付けした味ではなく素材そのものの味が次第に分かってくるという予期せぬ効果をもたらしてくれた。
 しかもこうした効果は何もサツマイモに限るものではなかった。秋はサンマの季節である。どこのスーパーでも一匹数十円で買うことができる季節になった。サンマに大量買いの後始末についてはかつて帯広で単身赴任を経験したときの記憶として書いたけれど(別稿「さんま丸かじり」参照)、今は昼飯だけのことだからそんな心配はいらない。ただ、ここはワンルーム事務室なので煙を出す焼き魚は敬遠して、頭と尻尾を外し三分割して蓋つきのフライパンにクッキングペーパーを敷いて焼く。塩を振らないでの焼きサンマだが塩味なしでもサンマの美味さはじっくり伝わってくるってもんである。最近はサンマと玉ねぎを基本にしたすき焼き風の鍋料理を事務所での飲み会で披露し好評である。

 トマトからトマト臭さが消え、キュウリからもかつてのキュウリ臭さはなくなってきた。それはスーパーで年を通して手に入ることの引き換えに失った旬の味わいなのかも知れないけれど、時に知人からの手作り野菜が手に入り、時に路上に並べて販売している山菜に手を出すこともある。そこに普段では味わえない旬を感じることができるのは、旬でない様々に囲まれているからこその味わいなのかも知れない。

 だから旬を知るということは、普段から旬でない味を味わい続けていることが最大の要素になっているではないかと思えてくる。そしてそれを支える最大の要因は、調味料の多用や高価な素材の組み合わせなどによるいわゆるグルメ追及みたいなものから少し離れて、素材一つ一つの素朴な味わいに触れることにあるのではないかと思えてくるのである。

 そんなことくらいで「舌が研ぎ澄まされること」などないのかも知れないし、贅沢な味わいの極みにこそ訓練された舌は存在するのかも知れない。そのことは、私の舌はこれほどの年を経ても依然として顔をくしゃくしゃにさせ、飛び上がり絶叫するほどの味の感動を伝えてくれることのないことが証明しているとも言えよう。私自身の持つ旬だとかグルメに対する感覚は、ほんのささやかな甘さであるとか幽かな香り、そして時には僅かな苦さや渋さなどが静かに伝えてくれるものにしか過ぎないからでもある。

 そわさりながら私は自己満足と言うか、自惚れと言うか、場合によっては負け惜しみになるのかも知れないけれど、旬の味とは絢爛豪華なデコレーションなどではなく、冬の外出から部屋の中に入ったときのようなほんのりとした暖かさみたいな当たり前の豊かな気持ちに似ているのではないかと思っているのである。



                                     2008.11.19    佐々木利夫


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旬の旨さ