「人間あきらめちゃダメですね」。脳腫瘍を克服した高校野球児の母の言葉である(8.19、NHKテレビ朝7時のニュース)。
 その言葉の意味が分からないではないけれど、どうしてもそうした言葉は「勝者の弁」であり、「成功者の自慢」でしかないような気がしてならない(別稿「失敗は成功のもと」参照)。

 同じ日、これもまた脳腫瘍で右手右足に麻痺の残ったあるプロ野球選手の復活の話が放送された。「奇跡の復活」と言われたとの伝説的なテーマで、一人の野球選手の絶望と忍耐と努力の物語だった(8.19、NHKテレビ22時)。そしてその番組のタイトルは「不屈の者たちへ」であった。
 そうなのである。克服し、復活したからこその不屈だったのである。復活できなかった不屈は、誰からも賞賛されることはない。努力することに賞賛を望んでいるわけではないけれど、ドラマになるのは復活した勝者にのみ許された特権なのである。

 私はそうした高らかに喜びの声を上げる人たちの、復活へ向けた血の滲むような努力や研鑽を軽く見ようとは思わない。もしかしたら普通の人にはできないであろうと思われるような、場合によっては不可能への挑戦とでも言えるような努力があったであろうことを否定したいのでもない。
 ただそれでも私はこうした物語の中に、どうしても成功者の驕りみたいなものが感じられてならないのである。それは人に伝えるべく構成されるストーリーは結局勝者の物語になってしまうからであり、敗者の物語は誰にも知られることなどないからである。

 脳腫瘍だけではない。突然の事故や病気、更には自らの能力の限界などによって多くの人たちが、「自分にも当たり前に訪れるであろうと考えていた生活」、または「夢見ていた生活」が突如として破壊されてしまうことなどそれほど珍しいことではあるまい。交通事故で片足失ったとしようか。そうした事故にもめげず、障害者としてパラリンピックの車椅子バスケットに出場する話も聞いたことがある。だがそれはパラリンピックに出場できた者のストーリーでしかない。両手を失くして口で絵筆を握り個展を開いた人の話もある。だが、そうした成果は努力するすべての人に均等に与えられているわけではない。

 恐らく数ある障害に屈することなく、様々な分野で活躍している人の存在を否定しようとは思わない。だが私はほとんどの人たちが車椅子バスケットに挑戦して挫折し、何の成果も上げられないまま車椅子の不遇をかこつ生活を続け、絵筆を口にしても絵はおろか文字すらも書けないままに生涯を過ごす人の方がずっとずっと多いのではないかと思うのである。
 努力した人の成果を賞賛するのはいい。だが成果を上げられなかった多くの人の思いを、「努力が足りなかったから」だとか、「実現する前に諦めてしまったからだ」などと言い切ってしまっていいのだろうか。

 私たちは「諦めること」を人生への望ましくない方向へ向かうことだと思いがちである。でもそれは本当にそうなのだろうか。私は諦めることを決して絶望であるか断念のみを示すものではないと理解している。マラソンで金メダルを取ることや甲子園で優勝することだけが希望の実現であり、成就しない状況を失敗とか挫折と呼びそれを人生の敗北として位置づけるものではないと思うのである。スターになろうと望むことを、見果てぬ夢として否定したいと言うのではない。だが望むすべてが実現するとは限らない。

 いまある自分をそのままに承認することも「諦めること」の一つの形態ではないかと思うのである。神なんぞになろうとしないことを、身の裡に認めることも含めていいのではないかと思うのである。
 こんなところで神を出すのは不遜かも知れないけれど、願えば人は神にでもなれるのだろうか?。だとすれば願うなら願う人の数だけ神もまた存在するのだろうか。何かになろうと願い、そうなれなかった願いもまた一つの貴重な思いである。願いの叶わなかった現実もまた今の自分である。それは決して挫折ではない。望むことのことごとくが叶うような願いなら、それは願いと呼ぶには値しないのではないだろうか。

 何かを望む自分、高望みにしろ何かになりたいと己に課した思い、どこまで努力できたかはそれぞれだろうけれどそこへ届かなかった自分・・・。そんな自分を悔やむことなどない。ここでいい。これでいい。このままでいい。今がいい。今だからいい。それもまた己である。叶わなかった望みに他者からの賞賛など望むべくもないだろうし、時に叶わない事実を失敗と受け取られることだってあるだろう。だがそれもまた己なのだと人は自分をゆったりと認めることができるのではないだろうか。そうした自分と折り合いをつけ、「希望」そのものとも折り合いをつけていく、そんな人生もまた人の選択であり望みでもあり人生そのものである。

 己の力を知り、己の行き着く先を知る。望みへの努力がその望みを金メダルや世界の名声へと押し上げるだけの力を持ってはいなかった。だが金メダルを望み、金メダルに届かなかった努力は、そのまま消えてしまうのだろうか。
 望みは望みのまま、遠くへと旅立っていく。それでいいのである。それは決して挫折ではない。遠くへ旅立ってしまった多くの願いをそのまま自分の中に認め、時に懐かしく味わうこと、それを「諦める」と呼んで人は己の中で実現しなかった望みをゆっくりと味わい、その中に自分を慈しむことができるのである。

 願いの多くは時間の中に埋没していく。スポーツでも芸術でも学問でも、それぞれにその時が異なるだろうけれど、人はどこかで己に「ここまで」との区切りを課すときが来る。そうした区切りへの道筋は、願いそのものを狭く、小さくしていく過程でもある。人は老い、そして諦めることも多くなってくる。それでも「願いの泉」は汲んでも尽きない湧き出しを持っている。新しい願いは、古い願いの諦めを超えて、地下水のように新しく湧いてくる。だから「諦める」ことは決して否定を意味する言葉ではないのである。

 諦めを挫折と並列させてしまうなら諦めることは振出へ戻ることを意味する。だとするなら諦めることはそれまでの努力を無として評価することを意味している。だが諦めは挫折ではない。それはどんなに小さい努力でも、努力が人を裏切ることはないことからも分かる。世界一を目指して世界一になれなかったとしても、その努力してきた過程は抜けがたくその身についているからである。少しずつにしろ自分の中で重ねてきた努力は、必ず自分の中にその足跡を残していることを自分自身でしっかりと知ることができるからである。

 私は高校を卒業して税務職員という道を選び、生涯をそれに費やした。これまでの生活を生涯と呼ぶにはまだ少し早いかも知れないけれど、現在でもその職業の延長として税理士をやっているのだからそう呼んでもそれほどの違いはないだろう。
 でも馬鹿げた表現になることを承知で言うのだが、「アインシュタインになる努力さえすることのなかった税務職員」、「芥川賞を狙った作品を作ることもなく白昼夢のままに終わった税務職員」、「草野心平を目指すふりをしただけの税務職員」、「フェルマーの大定理の証明に挑戦しようとさえしないままに人生を過ごしてしまった税務職員」、「オルガンもピアノもフルートもテナーサックスも何一つものにならなかった税務職員」(別稿「私の楽器遍歴(その一)、(そのニ)、(その三)」参照)などなど・・・、そんな人生があったっていいじゃないかと本当に思う。現実と夢想の世界と・・・、そのはざまを漂う人生も、あながち捨てたもんじゃない。そんな思いにこんな一句が静かに後押しをしてくれる。

                「このままの晩年でよし蝸牛」(石田あき子)



                                     2009.8.26    佐々木利夫


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諦めることの意味