C 手回し計算機

 私はこのマシンをタイガー計算機またはパスカルの計算機と呼んでいた。タイガーはメーカー名であり、パスカルとはこの計算機の原理を発明した人の名である。この当時使われていた形がパスカルによる直接の発明ではないようだが、パスカルとはなんとあの有名な「人間は考える葦である」の名言を残した「パンセ」の著者であることがその後分かり、高校生の頃、多少哲学に興味を持っていた青年としてはパスカルの名が計算機とはまるで結びつかなかったことに驚いた記憶がある。

 それはともかく私が最初に税務署に勤務した昭和34〜35年当時、この計算機は職場でひっぱりだこであった。加減算はそろばんでも十分に対応できたし、税務職員たるもの基礎的なそろばんの実力は全員が持っていたからそのための必要ではなかった。このマシンはどちらかと言うと掛け算、割り算に秀でた能力を持っていたのである。むしろ乗除算機能が優れていることから、職場に配備されている台数以上の人気があったと言ってもいいくらいだろう。

 ところでこのマシンはおよそ6sはあろうかという鉄のかたまりである。内部を分解したことはないけれど、操作音や手回しの手応えなどからこのマシンがかなり多くの歯車の組み合わせで出来ているだろうことは容易に想像ができた。
 このマシンには、任意の数字を指先で置くための小さなレバー(10数列あったから、億単位まで置くことができたのであろう)とその置いた数値を表示する窓(置数レバーと置数窓)、その置いた数値をハンドルの回転操作でそのままコピーする窓(結果表示窓)、そして回転させたレバーの回転数を表示する窓(回転表示窓)の三つの部分からできている。

 具体的な操作方法やマシンの機能などをここで述べるつもりはないが、概要こんな調子である。このマシンに掛け算をやらせることにしよう。例えば123×456を計算することにする。まず置数レバーで123と置く。上の写真で右側の上にあるハンドルがメインハンドルであり、そのほかについている三つの小さなハンドルは各表示窓の数値をクリア(つまりオールゼロに)するためのものである。計算の最初に全部の数値をクリアしておくことは当然のことである。
 さて123×456に話を戻そう。123は既に計算機にセットした。メインハンドルは常に下に位置しておりそこから手前に、そして上を経由して向こう側を経て再び下へと縦に一回回すことにしよう。手前から上へ、これがプラスの回転であってこの操作で一回分の加算となる。これにより結果表示窓に置数と同じ123がコピーされ、回転表示窓に1が表示されている。

 さて、これで分かるようにこのマシンは加算器である。もう一度同じ方向に回転させると結果表示窓には一回目の操作で表示された123にもう一度123が加算され、246が表示されている。もちろん回転表示窓が「2」になっていることは言うまでもない。これは123+123ではあるが、回転表示窓を考慮に入れると123×2の意味でもある。このまま更に回転を続けよう。9回転させれば結果表示窓には1107が、20回転させると回転表示窓の20とともに結果表示窓には123を20回加算した2460を見ることができる。

 掛け算とは複数の足し算の意味である。小さい頃から九九をお経のように教え込まれていたからその基本的な意味を忘れがちになっているけれど、3×4とは単に暗記の「サンシジュウニ」だけではなく、3を4回加算することと同じだからである。
 この意味からすると123×456の答を得るためにはハンドルを456回転させる必要がある。ところがこのマシンの賢いところは結果表示窓と回転表示窓の部分を左右にシフトさせることができることにある。上の写真の一番下の左側にちょっとしたでっぱりがあると思うが、これを左右に動かすことで桁の移動ができるのである。これはつまり右に一段動かすことで置数の123が10倍の1230になることを意味している。

 ここまでのことを理解できるようになると、456を掛けることは容易である。まず6回ハンドルを回して123×6を計算し、そのまま右に一段ずらして5回ハンドルをまわす。これは1230×5のことであり、これは結果表示窓に先の123×6の答えにそのまま加算されることになる。そしてもう一段ずらして4回回す。これは12300×4のことである。これで123×6+1230×5+12300×4=56088が6+5+4の15回転の操作で求めることができることになる(もちろん頭から4回、左シフトさせて5回、更に左シフトさせて6回と逆に操作しても同じである)。検算は簡単である。回転表示窓も左右のシフトに対応しているのでこの操作によって456が表示されているし、置数窓×回転表示窓=結果表示窓が成立するからである。
 もちろんこのマシンといえども位取りまでは対応できない。1.23×45.6も12.3×4.56も同じ操作になるから、そこは計算者の頭に委ねるしかない。

 ところでこのマシンの重宝さは掛け算ではなく、むしろ割り算にあったのである。掛け算が足し算の繰り返しであることは上述した。ならば割り算とは引き算と同義であることはすぐに分かる。例えば8÷3とは、8から3を何回引くことができるかを求めるものである。1回引いて残りが5、更にもう一回引いて残った2からはこれ以上3は引けないので、答えは2余り2と言うことになるのである。

 今度は456÷123を計算することにしよう。まず置数レバーで456を置いて一回回す。これで結果表示窓に456が、回転表示窓に1が表示されることは分かるだろう。そこで置数窓をクリアして今度はそこへ123を置く。そして回転窓の1をクリアする。次にハンドルを回すのだが、今度は割り算つまり引き算の繰り返しなのでハンドルの回転を掛け算とは反対の方向、下の定位置から向こう側→上→手前→下へと回すのである。これが引き算である。このとき回転表示窓はクリアしてあるのでそのままだとマイナス1(具体的には0から1を引いた全表示999・・・)になってしまうのだが、事前にこの操作が割り算であることを知らせるレバーをセットしておく。すると逆回転をプラス回転として認識させることができる。

 これで結果表示窓には456から123を引いた333が出ており、回転表示窓には1が表示される。333からはまだ123を引くことが出来るのでもう一回逆回転させる。結果表示窓には210が出て回転表示窓は2である。まだ引けるのでもう一回逆回転。結果表示窓87、回転表示窓3である。これで456÷123の答えとして一応3余り87の計算ができたことになる。

 さてこのマシンは位取りができないと言ったが、これを逆手にとって最初の456の置数を右詰に置くのではなく左に寄せて表示させることにしよう。それはもしかしたら4億5千6百万を意味しているのかも知れないけれど、456だと頭の中で理解しておくならそんなところで混乱することはない。桁数はともかくとして、上記の操作で3余り87は出ている。そこで掛け算でやったと同様に今度は結果表示窓を左に1段シフトさせて見よう。これで見かけ上87は870に変化したことになる。ここから123を引くことにしよう。7回引いたところで余りが9になってこれ以上引けない。そこでもう1段右へシフト。90になったがまだ引けない。更に1段右へ。余りは900と認識できる。これから123を引いていく。こうした操作を繰り返すとシフトするたびに回転表示窓もシフトしていくので、そこには37073・・・が、このマシンのシフト可能な段数だけ数字が並ぶことになる。これは3.7073・・・であることはマシン以外の自分の頭で判断しなければならないが、国家予算を検証しているのではなくせいぜい前年対比であるとか百分比の計算が多いのだからそれほど判定に悩むことはない。

 ところで上記の引き算で456から123を3回引いて答えが3余り87が出た。そのとき回転レバーを右へ1桁シフトすると言ったが、仮にそれをせずにそのままもう一回引き算をしてしまったとしよう。つまり87−123である。このときこのマシンは回転窓は4になるが、結果表示窓にはマイナスが表示できないので「999・・・36」と表示され、同時に「引けないのに引いた」との誤りを知らせる信号としてベルが「チン」と鳴るのである。そこでその誤りを訂正するために改めてプラス回転させて直前の87に戻す(この時も「チン」と鳴る)のである。
 余計な話だが、このチンと鳴らすのは無駄な作業を2度繰り返したことになる。ついつい余計に回してしまうこと(つまりチンさせてしまう)ことも多かったけれど、結果表示窓をそれとなく注視し、「チン」となる直前に回転を止めて桁をずらすのがいわゆる熟練芸であった。つまりチン、チン音をさせながら計算しているのはこの計算機の操作に慣れていない素人と言う意味である。
 なお、求められる計算結果は小数点以下2桁か3桁、せいぜいが4桁目を四捨五入する程度が多かったから、シフトする回数はせいぜい3〜4回繰り返すだけで足りたのでそれほど「チン」が多くはなかった。

 今となっては博物館でしか見られないようなマシンの操作に無意味な解説を垂れ流してしまったが、いくらそろばんができるといっても加→減→乗→除の順に不得意になっていくのは当時も今も、俗人にしてみれば当たり前のことであり私もまた同様だった。しかも割り算の必要度が比較的高かった私の職場では、このマシンの人気は自ずから高くなっていった。ネットで調べてみたら私がこのマシンを使っていた昭和30年代、その価格は3万円もしていたらしい。当時、月給が1万円になったら結婚できるなんて話題があったくらいだから、考えてみればとてつもなく高価な道具だったということになる。

 それにしても頭では分かっていたはずなのに、この計算機は私に掛け算とは足し算の繰り返しであり、割り算とは引き算の繰り返しなのだと言う当たり前のことを改めてしっかりと教えてくれたのである。

                                  私の計算機遍歴(4)「電卓」へ続く

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                                     2010.9.8    佐々木利夫


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