D 電 卓
計算機遍歴(3)で触れた手回しの計算機も卓上型であるには違いなかったけれど、両手で抱えなければ机の上に運べないような6s近い代物を卓上と呼ぶのはいささかの抵抗がある。とは言ってもそもそも電卓に「卓上」と言う意識そのものが存在していなかった時代の貴重で高価なマシンだったから、勤務時間の朝夕、倉庫から机へ、机から倉庫へとせっせと運んだものである。それにも増してその重宝さは格別で、昭和40年くらいまではけっこうな人気を保っていた。
そうしたときに突然電気式の計算機が職場にも登場してきたのである。まさに電卓の出現である。だがそれは私たちが現在思い描いているような電卓とはまるで違っていた。
いわゆるコンピューター式なのだろうことは一目で分かる。数字を入力するボタンがあって、計算結果を表示する窓があると言う意味では機能的に今の電卓とそれほど異なるものではない。それにもかかわらずまず図体がでかかった。重さはそれほどでもなかったように記憶しているが、恐らく30センチ四方くらいの大きさはあったような気がするし、高さも10センチに近かっただろう。入力するキーの部分がどうなっていたかよく覚えていないけれど、数字を表示する窓だけははっきり覚えている。桁数は十桁くらいあったように思うのだが、一桁を表示する窓には数字を赤く光らせるためのフィラメントが数字の数だけ重なっていたように記憶している。つまり0、1、2、3・・・9がそれぞれ別々に細いガラス管のようなもので多層的に構成されていて、たとえば8の時はその回路だけが赤く光るというものであった。1234とキーを押すと、確かに表示窓に横に並んで1234が出るけれど、それぞれの数字には微妙な深さの違いがあり、しかもその光っていない他の数値の回路も同時に透けて見えていたからである。
それは恐らく数字を表示するために開発された小型の真空管のようなものではなかったかと思うのだが、放熱対策のためだろうスイッチを入れたマシンの内部からは扇風機が回っているらしいプーンと言う音がいつも聞こえていた。操作方法は現在の電卓とそれほどの違いはなかったように思う。加減乗除の計算が小数点付きで表示されるその姿は、それまでそろばんや手回しによる計算機しか知らなかった私にとっては、まさにコンピュータ(昭和30年代の私にとって、この言葉は神がかりなSFの世界の装置そのものを意味していた)を目の当たりにしているかのような衝撃を与えた。
そして私を一層狂喜させたのは、その演算速度の微妙な遅さであった。遅いことに狂喜するなんて変だと思うかも知れないし、遅いと言ったところで一つの計算に要する時間が長いとの意味ではない。ほんの僅かな感じではあるが答が出るまでに微妙なタイムラグが感じられたことへの感想である。例えば掛ける数と掛けられる数を入力し、または割られる数と割る数を入力して答を出すために「イコールボタン」を押す。そのときである。ほんの僅かの時間、一秒の何分の一かの僅かな時間、表示されている赤い光が微妙に瞬くのである。遅いというほどの遅さではない。恐らくそれまで私の知っていたどんな計算機よりも、またどんなに優秀なそろばんの名手の出す結果よりも素早く答を出したであろうことを否定はすまい。
それでも目に見える形で、たとえそれがほんの瞬きに過ぎないような間でしかないにしても、その瞬きの中に私は「あぁ、いま計算機は私が指示した計算を実行しているのだな」と感じたのである。こうした瞬きに抱いた感慨じみた思いが、その後私をコンピュータの世界へと誘うきっかけになったのかも知れない。
この赤く光るデジタル数値のマシンに私はどれだけ焦がれたことだろうか。だがそうした熱い想いとは裏腹に、マシンに私の気持ちの届くことのなんと難しかったことか。ネットで調べたところ、この時代のこうした計算機の価格はなんと約40万円から50万円もしていたらしい。当時の私の月給が1万円前後だった状況からするなら、恐らく職場には一台くらいしか配備されていなかったのではないだろうか。だからその利用は多くの先輩や必要度の高い部門に従事するスタッフなどに優先され、私がキーを叩ける機会などは滅多に回ってこなかったのである。
もちろんその後の計算機の進化はまさに日進月歩の勢いであった。計算回路などがトランジスタだのICだのとよく分からない言葉で説明され始めると同時に、ラジオもテレビも目に見えて小型化・低価格化していき、いわゆるポケット電卓の時代へと急速に向かっていったからである。デジタル表示も多層的なフィラメント方式からすぐに、一つの面に並べた短い直線をいくつか組み合わせて光らせることで0から9までの数字を任意に表示できるスタイルへと移っていった。それは同時に計算機の真空管からの離脱でもあったのだろうし、そうした進化は計算そのものの高速化のみならず複雑化、そしてマシンの小型化にも素早く対応できるようになっていったのである。
今や8桁程度の電卓は√(ルート・平方根)や%などの機能も備え、あろうことか100円ショップにも登場するようになっている。「あろうことか」と書いたのは、別にそのことを軽蔑したり非難したいと思ったからではない。ただ赤いフィラメントにコンピュータを感じた私にとってみれば、数字や計算の世界は一つの空想や奇跡や夢の象徴でもあり、そうした世界への入り口だったマシンが100ショップに無造作に山積みされている現実にかつての夢の喪失を感じてしまうからなのかも知れない。電卓のデジタル表示はフィラメントから液晶へと変化し、しかも太陽電池が組み込まれたことで僅かの明かりさえあればコンセントも電池も不要なマシンへと進化を遂げた。こうした簡易で重宝な便利さとは裏腹に、私は心のどこかで嘆きにも似た気持ちを抱かされているのである。
ところで今や100円ショップにまで進出している電卓だが、実はここまでの過程に私の人生にはもう一種類、別な形での電卓が登場していたのである。
私の計算機遍歴(5)「関数電卓」へ続く
リンク 私の計算機遍歴(1)「
指・そろばん」、(2)「
計算尺」、(3)「
手回し計算機」、(5)「
関数電卓」
2010.9.8 佐々木利夫
トップページ ひとり言 気まぐれ写真館 詩のページ