いつ、どこで読んだのかまるで忘れてしまっているが、こんな物語が記憶に残っている。

 どうにも性悪な男が死んだ。天使はその男に天国と地獄の二つの道があることを示し、ある人物を助けることができるかどうかのテストに合格すれば好きな道を選択できると告げる。男は生前の自分の一生とは裏腹に、その人物を一生懸命助けようと努力するが、結局は成功しない。そこで男は天使に言う。「残念ながら助けられなかった。これで私の願いは終わりだね」。天使はにっこりと微笑んでこう答える。「あの人を救うことはできなかったけれど、あなたが変わったわ。天国への道はこっちよ・・・」。

 ああ、なんたることか。天国への道は、死んでからもまだ悠々と間に合うのである。

 天国がそれほど望ましい場所なのかどうかについては以前にもここへ書いたことがあるけれど(別稿「蜘蛛の糸」参照)、死んで星になる話などが多いことから見ても一種の希望として位置づけられているのかも知れない。また地獄に関しても私自身多少興味があって、ゲーテのファウスト(別稿「挫折の予感をかいくぐって」参照)やダンテの神曲(別稿「ダンテ、やっぱり・・・」参照)などで触れたことがある。また日本のお寺などにはけっこう地獄絵図の掲げられていることが多いほか、地獄図を奉納した絵馬もあるなど比較的身近な存在かもしれない。こんなふうに考えてくると、世界の宗教の多くでその呼称はともかく天国と地獄とは共にその存在を承認されていると理解していいのかも知れない。

 人がなぜ死後の世界を望むのかについて、私は必ずしもきちんと理解しているわけではないけれど、少なくとも人は死んだ後もなお生き続けたいと願っている思いが背景にあるのかも知れない。人は間違いなく死ぬ。そのことに誰も異を唱えることなどできないだろうけれど、「死んでもなお生きていたい」との感情は人の体を肉体と精神に分離し、肉体は亡んでも魂は存在し続けると思うことで我が身の永世をそこに込めたのかもしれない。

 「悪の栄えた例(ためし)などない」とはよく聞く話だけれど、現実的に考えてみるとこの世は悪人が栄えやすいのに対して、普通の人や善人は不幸に出会うことが多いように思えてならない。物語ではそうした悪人はやがて桃太郎やウルトラマンやバットマンや007などの正義の味方に滅ぼされてしまうことになるけれど、水戸黄門が立ち会うことのできなかったであろう町々の多くでは、権力を持つお代官様や金持ちの木材問屋などが互いに結託して力任せの横暴を極めていることは誰もが知っている。つまりは刑事コロンボに捕まらなかった犯罪者はいつまでも権力者であり続け、金持ちであり続けるということである。そのことは逆に悪人は権力者であり金持ちであり続けるのが常の世であり、そうした社会が永く続いてきていると言うことでもあろう。

 正直者を「正直であることだけに満足している人種」と定義することへの思いについてはここへ書いたばかりだけれど(別稿「正直者が馬鹿を見る」参照)、不幸続きの人生を生きる者にとっては、死後にしろ幸せの待つ世界を願うことが今を生き抜くことへのささやかな手段だったのかも知れない。
 権力もなく貧乏続きの人生をすべて不幸だったとは言い切れないだろう。もしかしたら「幸せ」ってのは、そのど真ん中にいてもそのことに実感できないものなのかも知れないからである。

 トルストイは著作アンナ・カレーニナの冒頭にこう書いた。「幸福な家庭はどこもみな同じようにみえるが、不幸な家庭にはそれぞれの不幸の形がある」。それはまた、人は不幸には敏感だが幸福には鈍感であることを言っているのかも知れない。
 そはさりながら、不幸続きの人生の中でどこかへ救いを求めることなしに自分の存在を維持していくことなど難しいのだとしたら、今よりも辛い地獄を思いその反語としての天国を望むことは人として当たり前のことなのかも知れない。「神は越えられる試練しか与えないはずだが・・・」(2010.5.8、朝日新聞、天声人語)、なのかも知れないけれど、世の中には「神も仏もないものか」と思えるほどの不幸だっていくらでも存在しているのだし、そうした不幸の連鎖の中でも人はなお生き続けていかなければならないからである。

 無信心で「個」としての存在は死をもって終わると頑なに思いこんでいる私に、天国など望んでも到来することなどないだろうけれど、それでも天国を信じようとしている人の気持ち、死後もなお生きていたいとする人の気持ちのどことなく分からないではない。たとえそうした思いの中に、現世に残してきたであろう様々の自らの生き様に対する贖罪の思いが含まれているにしてもである。



                                     2010.5.10    佐々木利夫


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