人の加齢の実感は目から始まると昔から言われてきた。目、つまり老眼から始まり、次いで歯に来て、それからだんだん下へと下がっていくという俗説である。どこまで信頼できる説なのか、信頼できないから俗説と呼ばれているのかその真偽はともかくとして、体中の部品が年齢とともにそれぞれが自己主張するようになってくることは事実である。それまでは自分の体に足も腰も背中も実感としては存在していなかった(存在を意識していなかった)にもかかわらず、いつしかそれぞれがその存在を自己主張するようになってきているのはまさに我が身としての実感である(別稿「
声も老いるのか」、「
部品としての体」参照)。
私も例外に漏れずすでに数年前から、老眼鏡なしでは新聞はおろか読書も不便になってきているし、こうしてパソコンに向って文字を入力するのにもメガネが欠かせなくなってきている。そうした目や足腰がそれぞれに自己主張をするようになってきていることを実感しているなかで、こんな文章に触れて「痛み」とはなんだろうかとふと感じさせられた。
「虫歯が痛むと食欲がなくなるばかりか、テレビもみていられない。はたまた恋人への想いさえもが消え失せてしまい、孤独な痛みの世界に沈んでしまうものである。口の中のちっぽけが歯が、なぜこれほどまでに生活をかき乱し、人生を狂わせるのだろうか」(化石から生命の誕生を解く、化石研究会編、朝日新聞出版、P187)。
そう言えば私も子供の頃は虫歯に悩まされたもんだなと楽しくない記憶が浮かんでくる(別稿「
どうして私だけが」参照)。この中で私は萩原朔太郎の「父と子供」の詩を引用した。こんな詩である。
父と子供
歯が痛い。痛いよう! 痛いよう!
罪人と人に呼ばれ、十字架にかかり給える、
救ひ主イエス・キリスト・・・・・
歯が痛い。痛いよう!
(萩原朔太郎 「宿命」所収)
私はこの詩で「歯が痛い」というどちらか言うなら俗世の思いと、「神への懇願」という別次元とも言えるような至高の祈りとが余りにも極端に対比されていることに驚き、そしてその対比できるほどにも同じような重さを人の中で占めていることに納得もしたのであった。
歯の痛みが恋人への想いまで消してしまうほどのものだったかどうかの記憶はないけれど、例えば指を怪我したとか鎖骨骨折(別稿「
我がバイク始末記(後編)」参照)などの痛みとは比すべくもないほどに強烈であることは経験上知っている。それはまさに「こんなに小さい部品なのに信じられないほど大げさにその存在を主張する」と言ってもいいほどである。
こんな風に言っちまうと「それは誤解だ」と歯医者に叱られてしまうかも知れないけれど、歯が痛いからと言って直ちに命に関わるようなケースは稀ではないだろうか。虫歯治療を怠ったせいで命まで危うかったような話は聞いたことがないからである。
私は進化の過程における歯の役割を必ずしもきちんと理解しているわけではない。肉食動物の歯は獲物を切り裂かなければならないことから牙へと進化した。もしかしたらそれは逆かも知れない。歯がナイフの形へと変化したことで肉を食うことができるようになったとも考えられるからである。そして他方草食動物は、草や枝などをすり潰して体内に取り込むために、その歯は臼のように平たくなっていった。そして私たちは雑食、つまり肉も草も消化できる生物として牙(犬歯)と臼歯の両方を持つことになった。
最近の子供はハンバーガーなどの柔らかいものばかり食べるようになってきて、顎の発達が悪いとの話を聞いたことがある。人は食物を加工し火を使い、時に塩や胡椒で調理して食べるようになった。それは一つの進化ではあるだろうけれど、人類の進化の過程から見るなら食物の調理は直近のことだろう。人が獲物を解体し食べやすい形に加工する技術を持っていたことは、石器時代の石の破片などからも推定することができる。でも基本的には人は食物を生で、時には硬いまま食べていたはずである。そしてその「食べる」とは「そのまま飲み込む」こととは違っていたと思うのである。道具を発明するずっと以前から、人は歯によって肉を切り裂き木の実や葉を噛んですり潰すことで体内に取り込んでいたのだと思う。
そうしたとき歯は生きていくための、体に備わった必須の部品、道具であったのではないだろうか。もちろん両目を前移動させたことで獲物の位置や距離感の情報が抜群に高まっただろうし、両耳の位置や鼻からの臭いなどもまた獲物の獲得に欠かせない器官になっていっただろうことも理解できる。しかし食物を口から取り入れ消化することなしに人体の維持は不可能だったのは事実である。しかもその消化は、蛇のように丸ごと飲み込んでもいいのではなく、噛み砕いて細かくしなければならなかったのである。
恐らくどんな生物もそうだっただろうけれど、生きる目的は第一に「生き残る」ことであり、次いで繁殖することであっただろう。生き残ることなしに繁殖もまたあり得ないだろうからである。そうしたとき、生き残ることはそのまま飢えとの戦いである。まず食べること、それなくしてその生物の未来はない。しかも切り裂きすり潰し、消化しやすいように食物を加工しなければならない。その役目は歯であり、歯だけであった。
その歯が故障すること、使えなくなることはまさに命の問題なのではなかっただろうか。歯こそは生き残るための自らの命の支えであり、同時に生き残りなくして自らの種を残していくことなど不可能だったからである。現代は、「チョコレートを食べ過ぎて虫歯になりました。歯が痛いです」の時代になった。そのことを否定はすまい。でも「痛み」とはその人に対する身体からの警告である。そして歯からの警告がこんなにも強烈なのは、かつての人類の進化の過程での「命を脅かす危機の到来」を伝える大切な信号であったからなのでないだろうかと、ふと感じたのである。
2011.8.4 佐々木利夫
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